Fray
山田が言うと、椎名はエレベーターのボタンを押しながら笑った。
「とっておきの店じゃなくて、どうでもいいとこに連れてくんだって。お前は真面目すぎるよ」
三回目ともなると、店員の目の動きで分かる。お、リリカが育てている客が来たぞと。しかし、今日は本人は休みだ。もしいると知っていたら、サーバを蹴って壊してでも、帰れない用事を作っただろう。リリカを他の人間の目に触れさせたくない。ここで働いている人間に対してそんなことを言うのは、矛盾しているかもしれない。しかし、ほとんどの用意は済んでいるのだ。今さら椎名課長に面通しをして、余計なやり取りを挟みたくはない。あともう少しだから、余計な雑音がないまま、目的を果たさせてもらう。殺人事件のことで盛り上がって、メッセージのラリーは一日に数回程度。ハムスターの写真や、家族の話も交えて、色々とやり取りをした。仕事と凶器の準備で忙しかったが、ようやく明日、同伴出勤の約束を取り付けた。
行き先は、あの川沿いの家。夜七時に現地集合。
リリカは、自分の目で見たいが、誰も付き添いがない状態で見に行くのは怖いと言っていた。それはそうだろうが、最終的には一人で来た方が良かったと、後悔することになるだろう。高島が口を滑らせたのが今日で、むしろ幸運だったかもしれない。明日は殺しの本番だし、それ以降なら、もうあの店に近寄る気にはなれない。
「おーい、また固まってんぞ。で、お前が仲良くしてる子は?」
椎名が目の前で手を振りながら言い、山田は肩をすくめた。
「いないっぽいですね、休みかもしれないです」
隣で空気がふっと揺れ、肩をぽんと叩いた指に通る大きな指輪を見た山田は、笑顔で振り返った。
「ヨシさん、こんばんは」
乃亜は山田の目をじっと見つめると、その横にいる強面の中年に目を向けた。
「上司の方ですか。いらっしゃいませ、嬉しい」
椎名が小さく頭を下げてうなずき、乃亜は言った。
「アリサです、よろしくお願いします。お席に案内します」
二人が席に着き、グラスビールが置かれて、店長が適当に二人をつけようと顔をぐるりと回したとき、乃亜は視線を送った。店長が小さく首を横に振り、それに対抗するように乃亜は首を縦に振った。もう一度店長は首を横に振ったが、乃亜は負けじと首を縦に振り、根負けした店長はうなずくと、マヒロを呼んだ。乃亜は顔をしかめかけたが、言葉と態度の両方を飲みこんで、前に向き直った。
「もう一人来ます。私、このまま座っちゃって大丈夫ですか?」
乃亜が言うと、椎名は何度もうなずき、一番の困りごとを思い出したように眉をハの字に曲げた。
「うちの娘が、君みたいな化粧を勉強してんだよな。目元が赤いからちゃんと寝ろって言ったら、それで昨日大喧嘩だ」
「あはは、地雷系ですか?」
乃亜が言うと、椎名は苦笑いのまま声を出して笑った。
「そんな物騒な名前なのかよ。止めたくなってきたわ。まだ中三だよ?」
山田は、椎名の様子を見ながら思った。この店は特に、人のガードを下げる。椎名の娘が中学生だということも、今この瞬間まで知らなかった。マヒロがやってきて自己紹介し、山田は当たり障りのない会話を楽しみながら、アリサと仲が悪いということを何となく理解した。それが功を奏してか、椎名はいつの間にか、アリサからマンツーマンで娘の取り扱い方を教わっている。
「それはグッと飲み込むんです。気づいてるけど、言わないんですよ。背中で語ってください」
「一日で何回背中使うんだよ。何も言えないじゃない」
椎名がそう言ったとき、一度だけ四人で話題を共有したが、それ以外はバリアが張られたように個別のやり取り。時間はしっかりと過ぎていき、椎名とアリサが名刺交換をするのを見た山田は、眉をひょいと上げた。随分と打ち解けたものだ。
二人が帰っていき、マヒロは小さな声で『リリカのOKゾーンが分からん』と言った。乃亜はそれを無視して控室に戻ると、貰ったばかりの名刺を見ながら、会社名をスマートフォンで検索した。株式会社徳井エンジニアリング。規模はそこそこ大きい。会社の事業例に、椎名武、山田芳人 と、二人の名前が載っている。自信満々な様子からしても、社内での評価は高いのだろう。
『ヨシが、上司の人と来たよ。高島さんがビビってた椎名かちょー』
梨子にメッセージを送ると、すぐに返信が届いた。
『マジで。会社の名前分かった?』
乃亜は頭を抱えた。ほら、頼りないんだって。そんなことも聞き出していないなんて。普段、何のやり取りをしていたらそうなるんだろう。
『かちょーから名刺もらったよ。株式会社徳井エンジニアリング。ヨシはイケイケリーマンぽい』
メッセージを送り、乃亜はアナログな行動予定表を見上げた。ホワイトボードにマーカーで手書きなんて、店長の趣味はどこまでも古くさい。『リリカ』とテプラが貼られた隣に星型のマグネットが貼られていることに気づいて、思わず身を乗り出した。明日の日付が書かれている。
『今、行動予定表見てるんだけど。同伴ってマジ? ヨシのことだよね』
乃亜は返信を待ったが、しばらく待っても既読はつかず、店長が顔を出して笑いながら言った。
「働けーい」
梨子は、乃亜からのメッセージを読みながら、風呂上がりで頭に白いタオルを巻いたままの真里佳に言った。
「すっかり、ノーマル真里佳に戻ったね」
「うん」
真里佳はそう言うと、タオルごと頭をわしわしと揺すり、言った。
「ねえ、ヨシさんって人とは、ずっとやりとりしてるの?」
「してるよ」
梨子が言うと、真里佳は口をへの字に曲げた。
「ふーん」
「へえ」
梨子が生返事をすると、真里佳は首を傾げた。
「あれからさ、全然そんな話、しなくなっちゃったから」
「大人のやり取りには、時間がかかるのよ。高校生のときみたいに、パーンスパッとはいかないの」
真里佳は、梨子の目を見ながら思った。新生中寺家がまた、始まろうとしているのだろうか。梨子の中で何かが猛スピードで回転していて、それを止めようとしたら、妹の手であっても止まる保証はない。また前を向いて走り出したのだとしたら。今度は、私は一緒じゃない。真里佳は、果たし合いが始まったように立ち尽くしたまま、言った。
「私、姉ちゃんに命を救われたと思ってる」
「どういう意味?」
梨子は顏を上げた。いつもなら、真里佳はスマートフォンをちゃんと置いてから話すのに、今はその手がずっとしがみついたままだ。
「姉ちゃんがあのバッグを持ってくれてたから、救われたってこと。そうじゃなかったら……」
「あのぬいぐるみを、撮り直してた?」
梨子が言い、その呆れたような口調に、真里佳は顔をしかめた。
「そうだよ。で、牧田流花みたいに刺されて、失血死してたかも」
そう言うと、梨子の表情が少しだけ、険しさを取り戻した。高速回転にブレーキをかけられたような、苦々しい表情。
「誰かいたの?」
真里佳は首を横に振りかけたが、今はごまかすときではないと思い直した。
「中にいたと思う。だから、ダッシュで逃げた。姉ちゃん、あの家は生きてるの」
「それ、先に言っといてよ」