Fray
ランタンの赤っぽい光で照らすと、真っ暗だったのが、怪談に出てくる呪われた部屋のようになった。あのコメントがきっかけになってここに立ち寄るというのは、どう考えても道理に合わない。しかし、牧田を待ち構えていたときに準備していた包丁や、実家の情報を聞き出すためのスタンガンは、この家の棚に入ったままだ。特に、包丁が台所ではなく棚の中に入っているのはおかしい。殺すために用意したようだ。本当は昼に戻りたかったが、仕事が終わるとすっかり日が暮れていた。中で光を焚くと外から丸わかりになってしまうが、性格上明日へ先延ばしにはしたくない。棚の中で湿気に食われた包丁は、完全に錆びついていて、スタンガンもバッテリーが液漏れし、完全に壊れていた。両方、無事回収はしたが。
楠木は、ランタンの光を消してしばらく息を潜めていたが、外から差す街灯のかすかな光を遮らないように身を低くしながら、再び窓から外を覗き見た。トラックの陰から走って逃げだしたのは、一体誰だ? 中学生か、高校生の女の子に見えた。甲高い足音が鳴って、その後ろ姿が少し見えただけだったが、何かから逃げていたのだろうか。楠木は、この家の周りではろくなことが起きないということを思い出し、小さくため息をついた。
特に、あの手の子供の相手をするのは、もうこりごりだ。
乃亜とのご飯は他愛もない話に戻り、本当に言いたかったことは言わずに済んだ。駅で買ったシュークリームの箱を持った梨子は、電車に揺られながら真里佳にメッセージを送った。
『姉は帰るよ。シュークリームと共に』
すぐに返信が届き、梨子は仕舞いかけたスマートフォンを取り出した。
『早いね。ありがとー、楽しみ』
真里佳は返信が早い方だ。文章を打つのも早いし、要件はすっきりとまとまっている。梨子は顔の左半分にかかった髪をかき上げて、目をはっきりと開いた。真里佳の基準に当てはめると、これは逆に他人行儀だ。『あざす』や、『わーい』なら分かる。少なくとも、『楽しみ』と言うような柄ではないし、そういう会話を交わす姉妹ではない。
乃亜に、本当に言いたかったこと。クラッシーという単語が知らない男の口から出たとき、ソファにしっかり腰かけていなかったら、倒れていたかもしれない。真里佳が倉敷友香と友達関係にあったとき、姉だった自分は、手芸部や女子らしい交流の下りとは無縁の、この環境からいつ出て行くかということだけを考える、敵意と悪意の塊みたいな存在だったのだ。中学生で反抗期だったから、という単純なものでもない。反抗期に個人差があるとすれば、『こういう極端に酷いパターンも、まれにあります』と博士のような人が例に挙げるケースが、まさに自分だったと思う。真里佳は怖がっていたし、ちょっとしたことで物が飛んできたりしたのは、今でも鮮明に記憶しているだろう。
それでも私は、覚えている限り、自分以外に対して怒りを感じたことはない。これだけ嫌だと思いながら、どうしてその環境に甘んじているのかという意識が常にあっただけで、真里佳のことはずっと好きだったし、可愛い妹だと思ってきた。だから、クラッシーという名前が倉敷友香のことで、当時四年生だった真里佳が『二人で、内緒の呼び名を決めたの』と言ったときに、中学二年生だった自分が生返事だけで応じたことすらも覚えている。倉敷はクラッシーで、真里佳はテラマリ。確か、内緒だよと話す真里佳に『内緒な割に、私に言っちゃってるけど』と冷たく答えた。
とにかく、あの呼び名は誰も知らないはずなのだ。それを、八年振りに店にやってきた『らしい』昔の客が、口にした。そしておそらく、誰のことか分かっていない。乃亜は、気まぐれで慣れない色恋営業に走ったと思っているだろうが、実は違うと言って今までのことを全て説明するには、一晩では到底時間が足りないし、そこまで頼っていいのかも分からない。出口を知らない迷路に一緒に入ってくれとお願いするようなものだ。とにかく、山田が二度と店に来なかったらそれまでになってしまうから、自分から近づくことを選んだ。真里佳の苦しさは、自分の友人でないという部分がフィルターになって、後一歩のところまでしか共感できない。しかし、想像で残りを補っただけでも、その苦痛は身に余る。例えば乃亜が、今でも何かと接点を持ってくるらしい元カレから酷い目に遭わされて、殺されたりしたら。いや、ある日突然、姿を消したら? いないという事実だけが、ずっと付きまとうだろう。
梨子は電車から降りると、家までの道を早足で歩いた。バッグの中でスマートフォンが一度震え、四〇五号室のドアを開けたとき、真里佳の靴が綺麗に揃えられているのを見た梨子は、頬を緩めて大きく息をついた。
「ただいま」
「あーい」
いつもの返事。梨子は靴を脱ぐと、薄手のコートを脱いでハンガーにかけ、居間を覗き込んだ。いつも通りの位置に寝そべっている真里佳が、スマートフォンから顔を離し、言った。
「シュークリーム、ありがと」
「今、食べる?」
梨子が言うと、真里佳は少しだけその言葉を頭の中に引っ込めて考えた後、うなずいた。
「うん、コーヒー淹れる。入るよね?」
「八分目ですらない。入るよ」
梨子が言うと、真里佳は立ち上がってコーヒーメーカーの方へ歩いていった。梨子は手洗いとうがいを済ませて、その後ろ姿を窺った。特に変わりはない、ただ、あまり目が合わない気もする。部屋着に着替えて居間に戻ると、湯気が立ち上るコーヒーカップが二つ、台所に置かれていた。梨子はシュークリームの箱を真ん中に置いて、真里佳と向かい合わせに座った。
「真里佳、ご飯食べた?」
台所には、洗い物が全く残っていない。外で食べてきたのだろうか。真里佳はうなずくと、四つあるシュークリームの一番端を手に取った。梨子は言った。
「ちょっとさ……」
面と向かって真面目な話をするのは苦手だ。気を抜けば事故を起こすようなスピードで突っ切るのがいつものやり方で、そのスピードは、前以外向かないことに対する免罪符になっていたから。いざこうやって面と向かって座ると、姉らしいことが中々言い出せない。例えば、どこに行ってたの? とか。真里佳はもう十七なのだ。自分がその年のときに言われたら、相手が誰だって噛み付き返したと思う。梨子が言葉を切ったままでいると、真里佳は顔を上げると、言った。
「ごめん、食べてない。忘れてた。だから、三つ欲しいかも」
「四分の三とか難しいことしなくていいから、全部食べなよ」
梨子が言うと、真里佳は口角を上げた。その表情を見て、梨子はようやく確信した。やはり今朝とは別人だ。深呼吸をして言葉を発しようとしたとき、真里佳が言った。
「姉ちゃん、お店でイヤなことあった?」
お互いに先回りの連発で、同じ目的地にたどり着くのも、常に同じ道。梨子は首を横に振りかけたが、諦めたようにうなずいた。
「じゃー、私からね。今日、すごい久しぶりに来たお客さんがさ。山田さんっていうんだけどね。クラッシーって人知りませんかって、聞いてきたの」
真里佳はシュークリームを持つ手ごと固まった。梨子がコーヒーを一口飲むと、それで言葉から解放されたように小さく息をつき、言った。