Fray
「私、例の川沿いの家に行ってた」
梨子はコーヒーを逆流させて噴き出す寸前で止め、咳き込みながらティッシュで口元を拭いた。
「ちょっと待って、今のカウンター何?」
真里佳はバツが悪そうに肩をすくめると、呟いた。
「どうして、クラッシーって名前を知ってるのかな?」
「分からないってか、聞き出せなかったから、連絡先を教えちゃった」
梨子が言うと、真里佳は目を見開いた。
「え、なんで? すごい昔の話だよ? てかさ、クラッシーって覚えてたんだ」
梨子は苦笑いを浮かべた。本当に柔らかく包まれた棘。その優しさも、どうしても言わずにはいられない意志の強さも、全てが自分の妹だということを証明している。そんな昔の話題は、新生中寺家ではタブー。でも、本当はそんなことない。
「私は、何も忘れてないよ」
梨子はスマートフォンをバッグから取り出すと、ロック画面に表示されたメッセージの通知を見つめた。
「真里佳はいつも、あの子の作ったやつは頑丈だって、褒めてた。ずっと忘れられなくて、当たり前だと思うよ。私は愛想なしだったけど、ごめん。そういう時期だったんだ」
真里佳は半分かじられたシュークリームを手に持ったまま俯くと、コーヒーカップとテーブルの隙間辺りを見つめた。埃一つないテーブルの上に涙が一粒落ちたとき、梨子はスマートフォンのロックを解除しながら言った。
「見て、真里佳。男ってのは、ちょろい。ちょろ助だよ」
真里佳は瞬きを繰り返しながら、梨子が差し出したスマートフォンの画面を見て、笑った。
『山田です、今日はありがとうございました。連絡先って、こんな簡単に教えてもらえるものなの?』
「ほんとに、教えちゃったんだ」
「そうだよ、乃亜みたいに二台持ちじゃないからね。本アカだよ。本名にしてなくてよかった」
梨子はそう言って笑うと、『こちらこそ、色々お話できて楽しかったです。また来てくださいね』と入力して、送信する直前で止めた。
「川沿いの家は、どうだった? あの人……。いや、お父さんは近寄るなって言ってたじゃない」
梨子の質問に、真里佳は自分のスマートフォンを取り出した。
「あのトラックは、今でもいるみたい。姉ちゃんは、覚えてる?」
「なんか汚いやつだよね?」
梨子はそう言ったとき、スマートフォンを握りしめる真里佳の爪が真っ白になっていることに気づいた。何かを支えにしていないと震えが止まらないように、固まっている。真里佳はスマートフォンの写真を見せた。
「これ、画質は最悪だけど。クラッシーが作ったやつに見えたんだ」
ナンバープレートの真横に、小さなぬいぐるみが吊られている。梨子は顔をしかめながら、写真を眺めた。
「うーん、ぬいぐるみだね……」
「撮ったときは、尻尾を捕まえたと思ったんだけど。これじゃ、何か分からないよね」
その言葉の続きを読み取った梨子は、首を横に振った。
「晴れた日に再チャレンジとか、やめてよ」
真里佳は明確には答えずに、完全な同意を避けるようにやや斜めにうなずいた。髪が顔にかかり、梨子は声を出して笑った。
「どっちなのよ。あ、ヤバい。いきなり既読無視はダメだわ。なんて返事してほしい?」
「私が決めていいの? クラッシーのことを、それとなく聞いてほしい」
真里佳が言うと、梨子は眉をハの字に曲げた。
「ムズいな。まずは探ってみようか……」
すでに打っていたお礼の分を送信すると、梨子は続きの文章を打って、真里佳に見せた。
『探されていた人、見つかるといいですね。何か、探そうと思うきっかけがあったんですか?』
「良い」
真里佳が目を見ながらうなずき、梨子は元の文章と一緒に送信すると、コーヒーを一口飲んだ。
「でもさ、店長の友達とか、大人を想像してるっぽいんだよね。ほんとに誰か知らないんだと思う。でも、どこかで名前を聞いたってことだもんね」
数分で返信が届き、真里佳が梨子の指を急かすように身を乗り出した。梨子がメッセージを表示したとき、その手を思わず掴んだ。
「これ、あのサイトのことだよ」
梨子は部屋全体がすとんと冷えたように感じながら、うなずいた。オンライン百科事典のアドレスが添付されている。千草工業地帯連続殺人の記事。
『これ読んでたら、怖くなってきたんですよね』
真里佳は自分のスマートフォンで同じサイトを開くと、コメント欄を表示した。
「この四十二番を書いた? って聞いてほしい」
「待って、それはいきなりすぎない?」
梨子が苦笑いを浮かべると、追加でメッセージが届いた。
『聞いても、誰も答えてくれなくて』
梨子はすかさず、返信を打った。
『今、ちょうど見てます。この最後の方のやつって、山田さんなんですか?』
『そうです、四十二番。滅多にコメントなんてしないんですけど、気になっちゃって』
得意気な顔でスマートフォンの画面を真里佳に掲げた梨子は、一仕事終えたようにぷーっと息を吐いて、コーヒーを飲んだ。
「どうよ。山田さんで確定だね」
真里佳は小さく拍手をしたが、熱病に浮かされたようなここ数分のやり取りが急に恐ろしくなったように、肩をすくめた。
「どんな人なの?」
「ちょっとピリ辛な、猛烈系サラリーマンって感じ。でも、家族もいるらしいし、普通に見えたけどな」
梨子はそう言って、返信を考えながら宙を見上げた。
「さて、どうしよ。ちょっと気になるので読んでみます、おやすみ。ぐらいかな、今日のところは」
「もう終わりなの?」
真里佳が不服そうに顔を引くと、梨子は時計を見上げた。
「妹よ、時計を見たまえ。今日どうにかなる話じゃないと思うよ。お店にもお金を落としてもらわないとね。さ、店仕舞いの準備をしましょうか」
シュークリームの続きを食べ始めた真里佳の顔を眺めていた梨子は、立ち上がった。ここへ越してきたとき、荷ほどきをせずにクローゼットの中へ押し込んだ段ボール箱。それは最後の最後に慌てて詰め込んだ『その他』で、実際箱にそう書いてある。
真里佳は、スマートフォンの画面を見つめながらシュークリームを食べ終えると、コーヒーを飲み干した。クラッシーのこと、覚えていてくれてたんだな。自分の記憶だけが頼りだったけど、少し気が楽になった。同時に、この名前を知っているらしい『ヨシ』という存在が、あまりにも目障りに感じる。それだけじゃない。あのぬいぐるみは、絶対にクラッシーの作品だ。それをトラックに戦利品のように結ぶなんて、あのトラックの持ち主は狂っている。
足音が戻ってきて、真里佳は顔を上げた。梨子は埃で咳き込みながら、言った。
「真里佳、多分さ。昔話とかできなくて、息苦しいところがあったと思う。でも、私に合わせなくていいのよ」
クラッシーとの、最後の作品。パステルブルーとピンクが自己主張のぶつかり合いのように混ざり合った、トートバッグ。真里佳は目を見開いた。
「え……、どうして?」
「これぐらい、持って出る余裕はあったよ」
梨子が手渡すと、真里佳はそれを胸の前に引き寄せた。梨子はその肩に手を置き、言った。
「山田さんは、また店に来ると思う。だからさ、真里佳は一回リセットして。ね?」
真里佳が、今度はまっすぐうなずいたのを確認した梨子は、頭の中だけで続きを言った。