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未解決のわけ

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 そんな人たちなので、オリンピックで、どういうことになるかなど、数字だけの予想であって、実際になってみなければ分からないというものだ。
 いや、そうではない。
「オリンピックで得をするのは、ごく一部の特権階級だけだ」
 ということである。
 オリンピックが終わって、世の中がどうなろうとも、自分たちが潤えばそれでいいという考えなのだろうか。
 しかし、もしそうだとすれば、由々しき問題である。
 確かにその時は潤うかも知れないが。そのために、経済全体が死滅してしまえばどうなるというのか、場所によっては、その土地だけが破綻したわけではなく、国家全体で破産した国だってあったではないか。それほどオリンピックを行った後には、大きな問題がの残ってしまうのであった。
 いくら少しだけ自分たちが潤っても、それはあぶく銭でしかない。実際に自分たちを潤すのは経済の回転であり、オリンピックによる不況のために、関連会社が皆倒産してしまうと、いくらお金があってもどうしようもない。モノを作る機械や施設はあっても、実際に売れなければ。作れば作っただけ赤字なのだ。
 しかし、作らなければモノは売れない。モノが売れないと、モノが消耗しないので、新しいものを買う人はいない。要するに世の中、スパイラルで成り立っているのだ。
「循環」
 と言ってもいいだろう。
 実際のスパイラルという言葉の意味は、
「らせん状」
 という意味らしいのだが、何となく循環という意味で見られることも少なくない。
 それはきっと、
「負のスパイラル」
 という言葉があるからであろう。
 それは、連鎖的に悪循環が生じることで、デフレスパイラルとも言われるところから来ているのだろう。
 ということで考えてみると、
「循環に対していう悪いという意味での反対語は、悪循環という言葉とは違っているのではないだろうか?」
 と考えられる。
 スパイラルというのがらせんであるとすれば、悪循環というのは、一方向から見ただけのもので、平面的な発想だと言えるだろう。そう思うと負のスパイラルというのは、実は立体的な発想で、まるで天気図のようなものだと言えるのではないだろうか。
 天気図の気圧の線が細かく刻まれているのは、それだけ奥が深いという意味で、嵐が起きやすいとも言える。そんな天気図を思い起こしてみると、負のスパイラルというのは、どこまでも続く、
「堕ちていく奈落の底のようなものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 オリンピックの開催が、そんな負のスパイラルを招くということは、それだけ奥が深く。入り込んでしまうと抜けられない、
「底なし沼」
 や、まさにらせん状に狭まった場所に吸い込まれるように落ちていく、
「アリ地獄」
 のようなものではないか。
 オリンピックとまではいかないまでも、毎年開かれる学生や社会人の大会も無数にある。
 スポーツ各種ごとに、中学、高校、大学。社会人といろいろな大会が毎年どこかで催されている。
 しかも、同じ中学生でも、季節によって年に何度も開かれる全国大会もあり、高校野球のように、甲子園を毎年使うということで固定してあるスポーツ大会もあるが、それはある意味珍しいのではないだろうか。野球やサッカー、ラグビーなどは、毎回同じだったりするが、毎回同じであっても、毎年たくさんの狭義が学校や社会人を隔てることなく行われるマラソンや駅伝のような大会もある。
 しかし、毎年違った場所で開かれる大会も少なくない。ただ、それはどちらかというと、いろいろな競技が集まって行われるもおで、体操で会ったり、インターハイのような協議は、いつも同じ場所だとは限らない。
 きっと同じ場所でやるのは、昔から競技場が聖地のようになっていて、その場所を目指すことが当たり前のようになっているからであろう。
 野球の、甲子園、神宮。サッカーの国立、ラグビーの花園などが、その象徴と言えるのではないだろうか。
 インターハイなどは、前から決まっているので、そうも誘致という問題は起こらないかも知れないが、数年前から、インターハイに似た大会が、やはり毎年、いろいろな場所で行われるということになり、その招致合戦が結構頻繁になっていた。
 これはさすがにオリンピックほどの大きな特需もなければ、その分の不況もない。それを思えば、少々の企業であれば、誘致に乗り出すための協力を惜しまない街も少なくない。
 しかも、この大会は、県庁所在地でなくとも立候補ができる。例えば、一つの地域が重なって一つの自治体の様相を呈することができれば、招致は可能だというのだ。
 実際に、近隣の市町村が協力して一つのイベントを行うというのは、今では普通であるが、実際にはなかなかうまくもいかない。それは、昔からある、警察の管轄による、
「縄張り争い」
 のようなものが、底辺にあるからではないだろうか。
 今年になって、いろいろな街が声を挙げているが、決して一枚岩ではない。それは見てても分かることで、どの立候補地も同じなので、決める方も難しい。
「どこを選んだとしても同じ」
 ということになれば、今度は街ごとでいさかいの種になってしまう。
 それでは次の大会の開催が危ぶまれるだろう。
 明らかに、立候補してくる自治体がなくなってくるからだ。
「どうしてオリンピックはあれだけ露骨に不況になるのが分かっているのに、招致合戦をするんだろう?」
 という疑問が生じる。
 最近は、そんなスポーツ大会を誘致を行う都市のために、そのノウハウを提供したり、業務代行のような商売が生まれてきた。それまでの自治体では、招致のために、新たな部署を臨時に創設し、いろいろな部署から招致委員が数名選出され、仕事をしていた。しかも、元の業務もこなしながらの、
「兼任作業」
 である。
 しかも、本職は元の仕事であり、招致委員はあくまでも臨時の仕事、若干の手当てが出るとはいえ、明らかに損な役回りだった。
 したがって、仕事も完全な片手間、計画から遅れてきたりして、最後は間に合わせるために、自分の本来の仕事を他の人にさせて、自治体全体が、非常事態のようになっているというのが現実だった。
 要するに、計画性がまったくなかったことが挙げられる。
 そんな状態で、スポーツ大会が成功しても、自治体自体は完全におかしくなってしまっている。仕事のリズムも、それまでせっかくキチンとしていたものが、一度リズムを崩してしまうと、なかなか元に戻らない。それがどんどん、自治体運営を窮地に追い込んでいくことになる。
 しかも、大会が終わると、それまでの景気がウソのように落ち込んでくる。せっかく整備した競技場も、どこの団体も使うことはなく、大会だけに使用するために整備された跡地も、買い手がつくこともない。
 商店街や、ショッピングセンターにも人が立ち寄らなくなり、大会招致前の状態に景気は逆戻りだ。
 せっかく整備した競技場や施設を、今度は維持するお金もなくて、いかにもオリンピックが終わってから数年で、会場となった競技場のスタンドにヒビが入っているという状況がウソではないということに、やっと気づくことだろう。
作品名:未解決のわけ 作家名:森本晃次