ウラバンナ(青春紀ー2)
タクシーを降りて馴染みのカンテラの暖簾をくぐったが、この雪で店には客がいなかった。
「女将さん、二人だけどいいですか?」
三十半ばの女将、深尾光世はいつも和服を着ていたが、立ち姿は凛としていた。
「矢納ちゃん、いらっしゃい。今日は彼女同伴なの、初めてのことだね」
故郷は産炭地に指定されており、校区には小規模のヤマ(炭鉱)が四か所あった。女将はその一つのヤマの長屋社宅に住む炭鉱夫の長女で在日一世だったが、上京して日本人と結婚して離婚後も元夫の姓を名乗っていた。
大勢の朝鮮人が肩を寄せ合って暮らしていた長屋の社宅、ヤマ(炭鉱)は一つの朝鮮人の町のようだったという。在日一世の深尾光世にとってヤマは第二の故郷だと言ったことがある。
当時、政府は戦時下の労働力不足を補うため、国家総動員法や国民徴用令などを制定し「募集」「官斡旋」「徴用」などと形を変えて朝鮮人を大量に動員した。
深尾さんは四歳の時に炭鉱に動員された父親の跡を追って、母親と弟と一緒に来日していた。
父親が怪我で働けなくなったので、その代りに子供の頃から母親と一緒に大人に交じって働いたそうである。ヘッドライトの充電や選炭作業で日銭を稼いだと話してくれたことがあった。
七歳の時に終戦を迎え、多くの朝鮮人が引き揚げ船で帰国したが、深尾さん一家は船賃を用意できなかったために日本に留まっていた。
女将の苦労話を聞いていると、小学校の頃の校庭の一コマが甦ってきた。
同じクラスの少女が赤ん坊を背負ってヤマから登校してきたものの、教室に入れずに運動場のブランコで赤ん坊をあやしていた。その少女はおそらく脱脂粉乳の給食を食べに来たのであろうが、三時限目が終わる頃には小雨になり校庭から消えていた。
おそらく雨で赤ん坊がぐずったために、給食を食べずに一時間近くをかけてヤマの自宅まで濡れながら引き返したのだと思った……。
その頃の日本は復興を成し遂げて高度経済成長期に入っており、エネルギーは石炭から石油に転換される過渡期にあった。
日本列島はオリンピック景気に湧いていたが、田舎は聖火リレーが話題になるくらいで都会ほどに関心が高くなかった。ヤマの一家は戦後の復興を支えてきた功労者だったが、皮肉にもヤマはオリンピック景気の陰で粛々と閉山手続きに入っていた。ヤマの一家は新しい仕事が見つかると、三々五々ヤマから各地に離散して行った。取り分け在日の人たちの再就職は難しく、中学校で優等生であっても未来が開けなかった。
女将の深尾光世は、義務教育を終えると集団就職で上京していたが、それは極貧家庭の食い扶持減らしでもあった。彼女は東京で仕事を転々としているうちに、水商売の世界にどっぷりと浸かっていた。故郷に帰ろうにも炭鉱社宅はなくなっており、大都会で生きていくしかなかった。その苦労の積み重ねが鉄火肌の気風を創り出し、店を切り盛りする原動力になっていた。
「矢納ちゃんにこんな素敵な彼女がいるなんて……。寺ちゃんの話を断るはずだわね。どうして今まで黙っていたの……」
女将は二人を見ながら冷やかしを言った。
「ち、違いますよ、彼女は幼なじみの秋津柊さん……。中学の卓球部の先輩ですよ」
私は慌てて否定したが、もしかすると柊も、吉川弘文に私のことを後輩と紹介したのかもしれなかった。その先輩・後輩の言い回しはそれ以上の関係にないことを強調する代名詞でもあった。
「あら! だったら秋津さんは中学校の後輩になるのね……。背も高くて色白だし、もしかしたらハーフかな? さぞかしもてるでしょうね」
女将は若い頃に一度だけ帰省して、昔住んでいたヤマを訪れたことがあった。長屋住宅があった一帯は荒涼とした更地が広がっており、セイタカアワダチソウが風に吹かれていた。女将はそれを目の当たりにして、もう帰るべき故郷がないことを知って二度と帰省しなかったという……。
それだけに、都会で同郷人に会うと方言から想い出の欠片を捜したが、女将が東京で中学の後輩女性に会ったのは初めてのことだった。
「子どもの頃はよく混血だとからかわれました……。ほら、瞳もヘーゼルというのか茶色ぽいでしょう……」
柊も女将が中学の先輩と知って心を許したのか、さき程よりも明るく饒舌になっていた。私はその様子を見ながら、先ほど早く帰ると言ったことも誘いを断るための詭弁だと思った。
「ヘーゼルの瞳は九州地方に多いと聞いたことがあるわよ。秋津さんの家は炭鉱に関りがなかった?」
「昔、祖父が関わっていたようですが……、わたしはその頃のことはよく知りません。祖父を知っておられます?」
柊は意外そうな顔をして女将に訊き返した。
「ヤマのお偉方にそういう苗字の方がおられたような気がしたの……。秋津さんは矢納ちゃんとお似合いのカップルのように見えるけど……」
女将は二人の関係が気になったのか、柊の指をさり気なく見ていた。
「あっ、この指輪は玩具なので特別な意味はありません……」
柊は女将の目線を感じたのか、リングを隠しながら慌てて言い訳をした。
女将もそれが安っぽいリングであることは分かっていたが、元炭鉱主の孫娘には不釣り合いなリングだと思っていたのである。
見合い話
二人の長州女は故郷の想い出話に花を咲かせていたが、それが一段落すると女将が私の過去の見合い話を始めた。
「矢納ちゃんが本社に転勤して来て間もない頃だけど……、彼が珍しく酔ったことがあってね。横浜での失恋を愚痴ったことがあったの……。それで寺ちゃんが女子行員を紹介しようとしたのだけど……」
女将は私の失恋の相手が秋津柊だとはまだ気づいていない様子だった。柊はその見合い話を聞きたい素振りを見せていた。
「俺の話はいいから。それより四人会のことを話してあげてよ」
私が話題を変えようとしたが、柊は見合い話に興味を示してきた。
「女将さん、その寺ちゃんって、どういう方ですか?」
「寺本さんって言うの、彼は矢納ちゃんの会社の中山さんと中学で同じクラスだったの。私も末席のクラスメイトだけど、二人は飛びきりの秀才でね……。寺ちゃんは日本橋の銀行マンだけど、矢納ちゃんを入れて、この店でミニ同窓会をやっているのよ……」
秀才でエリートの二人が在日の女将と交流が続いているのは同郷の絆でしかなかった。二人は子供の頃から在日の人たちへの差別を日常的に目撃していた。
昭和の器量人の二人は口にこそ出さなかったが、松陰や晋作らの長州デモクラシーの思想を引き継いでいたのかもしれなかった。
「女将さん、その寺本さんの話って、結局何だったのですか?」
「もういいよ、その話は……」
私は自分の話題から逸らそうとしたが、柊はその話に執拗に食いついてきた。
「矢納ちゃんが断ったから、見合いの話は実現しないままに流れたの……。相手は銀行勤めのお嬢さんだから、身元もしっかりしているので会うだけでも会えばよかったのにね……。本人にその気がないから、結局寺ちゃんも諦めたのよ」
女将は私の顔色をみて、手短に話を打ち切ろうとしていた。
「そういうことがあったのですか……お見合いをすればよかったのに……」
柊は誰にともなく呟くように言った。
作品名:ウラバンナ(青春紀ー2) 作家名:田中よしみ