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田中よしみ
田中よしみ
novelistID. 69379
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ウラバンナ(青春紀ー2)

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柊も人妻としての箍(たが)から逃れることができなかったのであろうが、私には銀の指輪が眩し過ぎた。
もしあのまま横浜に居座れば、取り返しのつかない泥沼にはまり込むことだってあり得たのである。


プレゼント
 中学時代から一学年上とは言え、僅か半月前に生まれただけのカトレアに圧倒されてきた。それはイガグリ頭や服装などの外形的なこともあったが、彼女は経済的に恵まれた家庭環境に加えて精神的に成熟していた。いわゆる大人びた女性だった。高校時代も、自分で告白しておきながら、その裏側では彼女に不釣り合いな自分を自覚していた。
「大学時代に東京で待っていた時には逢えなかったのに、横浜で結婚した途端に会った時は驚きというよりも宿命だと思ったわ……。あなたにプレゼントがあるの、それを渡したら解放してあげるから……」
今日は何故か甘い言葉をかけてきたが、今更期待を持たせるような言葉は欲しくなかった。そうであれば、彼女から誘いを受けた時に体よく断ればよいものを……、いつまでも未練に翻弄される自分を情けなく思った……。

 柊に腕を引っ張られて雪の中の日本橋を歩いた、十年前の盆に線香花火を買いに行った時以来のデートだった。これで長年の夢が叶った思いであった。
デパートに着くと、柊は事前に手配していたのか、ダンヒルのライターとタイバーをプレゼントしてくれた。
「えっ、これを俺に、ですか……」
柊とは長い付き合いだったが、それ以上の関係に発展することはなかった。だから、再会の約束を破った罪を咎められることはあっても、高価な品をプレゼントされる謂われはなかった。
「あなたからアクアマリンのリングを貰ったことがあったでしょう……、覚えている? 遅くなったけどその時のお返しよ……」
彼女はヘーゼルの瞳を悪戯っぽく細めて言った。”あなた”と艶のある呼び方をされたのも初めてのことであり信じられなかった。
「え、リングですか……、あの露店の……」
十年前の盆踊りの夜店で射落したガラス細工の玩具のことだと思った。
「そうよ、初デートのメモリアルリングだから……。このリングと朝顔はずっとわたしと一緒に夏越しをしてきたけど……、肝心のあなたとはいつも行き違うばかりで…………」
秋津柊は歯がゆいばかりに、私が密かに欲しがっていた甘い言葉を惜しげもなく口にした。
彼女が左の皮手袋を外すと、薬指に安っぽいリングがはめられていた。
「え! その指輪がそうですか?」
人妻の柊が十年も前の玩具をつけていたことが信じられなかった。それ以上に驚いたのは、眩しかったマリッジリングが消えていたことだった。
「アクアマリンは私の誕生石だけど海の精と言われているの……。これを贈られた女性は幸せになると言い伝えがあるのよ……」
柊はマリッジリングが消えたことには触れなかった。その代わりにアクアマリンの魔力を説いたが、彼女のリングの石は露店のまがい物に過ぎなかった。
「そんな子供騙しのガラス細工が、ですか?」
アクアマリンは柊の言う通りだとしても、玩具の石にそういう効能があるはずがなかった。

 秋津家は祖父の代まで炭鉱主だと池澤捷一から仄聞していた。現在は柊の父親が石油販売業や不動産会社を手広く経営しており、柊は生まれながらにして裕福な家庭で育っていた。
彼女にすればダンヒルは然程の金額ではなかったのかもしれなかったが、三十歳前のサラリーマンには手の届かない贅沢な嗜好品だった。
「わたしが学生時代にこのデパートでアルバイトして貯めたお金だから気遣いは無用よ……」
大学時代に卓球の練習の合間をぬって働いたお金だと言ったが、実家が裕福なだけに意外な気がした。
「えっ! 柊さんが学生時代にバイトされたのですか……」
アルバイトしたことも初めて知ったが、その貴重なプレゼントだと聞いて尚更恐縮していた。
「あなただって、高校時代に一日三百円の氷配達で頑張っていたでしょう……。それを思い出して練習の合間にバイトしたのよ……。私の気持ちだから、遠慮しないで受け取って欲しいの……」
私が横浜にいた頃の柊は人妻としての節度をわきまえていた。私にすればその健全な距離感がやりきれなかった。だが、今日の柊は女の匂いを感じさせる危険な近さにいたが、それがもっと前であればと悔しく思った。


カンテラ
 吉川弘文が勤務していた工場は既に倒産していた。柊はそのことには何も触れなかったが、吉川家に艱難がふりかかっているはずであった。
水面下で、Nエンジニアリングが工場跡地の根抵当権者のR銀行と買収交渉を進めていた。工場も社宅も取り壊して更地にすることが買収の条件になっていたので、社宅も近々解体されるはずであった。
吉川夫妻の去就を知りたい思いもあったが、初めて女性の扉を開いた秋津柊ともう少し話をしたかった。
「柊さん、近くにカンテラという店があるのですが、これから温かいものでもどうですか?」
夫婦の仲違いであれば、横浜の吉川家に戻れば平穏な妻の座が待っているはずであった。私は柊からこぼれ出た女心に初めて触れたが、奪えるものなら奪ってしまいたい邪念に駆られていた。
「カンテラって懐かしいわね。炭鉱や夜釣りなどで使っていた手提げ灯のことでしょう……」
柊はカンテラの言葉に郷愁を感じているようであったが、それを察してカンテラの魅力を殊更に強調した。
「人形町の裏通りにある小料理屋です。女将は同郷のヤマ(炭鉱)出身の人です。柊さんより七つ年上だけど気さくな人だし、和風料理で評判の店ですよ」
今この場面で強く押さなければ、十年来の片思いが報われる日は二度と来ない気がした。
「ごめんね……、折角だけど吉川に早く帰ると言って家を出て来たので……」
柊は一転して妻の立場を仄めかせて私の昂った気持ちに水を差した。
それが本当ならば電話で旧姓を名乗ったことも、先ほど日本橋の街を寄り添って歩いたことも納得がいかなかった。そして、何よりもマリッジリングが指から消えたことが腑に落ちなかった……。

「実は、今日はあなたにお別れを言いに来たの…………」
柊は立ち止まって緋色の唇を開いたが、矢張り夫婦で故郷に帰るのだと思った。
先ほど来の柊の優しさも、別れの気持ちが脚色したのだと思った。
「……電話をもらった時からそんな予感がしていましたが……。一体何があったのですか?」
本社に転勤した時に柊とは訣別したつもりであった。こうして別れの挨拶に来たと言われれば、尚更のこと名残惜しくなった。
失業して夫婦で故郷に引き上げるのかとも思ったが、そうだとしても先ほどの数々の疑念が拭えなかった。
「これが最後なら、少しだけ私に付き合ってもらえませんか?」
柊の返事を待たずにタクシーを止めて後部座席に押し込んでいた。
「運転手さん、近くで悪いけど人形町までやってくれます?」
愛想のよい高齢の運転手は近距離にもかかわらず引き受けてくれた。年金生活の運転手は茨木から週末だけアルバイトに来ていたが、若者には未来があり羨ましいとミラー越しにお世辞を言った。
二人は会話を交わすこともなく車窓から雪の降る街を眺めていた。私と柊の未来は、この雪空のようにどんよりと曇っていた。


カンテラ(小料理屋)