ウラバンナ(青春紀ー2)
吉川は工場が倒産したのを機に、柊と離別して故郷で療養することを決意していた。柊は吉川の決意に抗ったが、その時に予てよりの疑問を糾したことがあった。
『あなたは糖尿病を患っておられたから寝室を別々にされたのですか?』
夫婦とは言え、これまで訊きたくても訊けなかったことであった。
『私はEDを発症していたので元々結婚するつもりはなかったのです……。関東地区の同郷会で声をかけたのも秋津由美子さんに頼まれていたからです』
彼はいつも学校の先生のように言って聞かせるような口調だったが、姉の依頼というくだりは初めて聞く話であった。
『君の失恋話しを聞いていて、出自のことが関係していると直感したのです。私も部落出身で田舎が嫌になって上京したのでピンときたのです』
柊は孝夫が卒業した時に再会の手紙を池澤捷一に託していたので、孝夫から連絡がなかったのは出自のことが原因だと思っていた。
『失意の君が大学を卒業して田舎に帰ってもまた同じ苦しみを味わうと思ってね。それで、由美子さんとも相談した上で、私が君の傷が癒えるまでのシェルターになったのです……。だから、いずれは君を自由に解き放つ計画だったので、由美子さんとの約束通り君には指一本触れなかったのです……』
吉川が部落出身者ならではの気遣いをしてくれていたことを知って唖然としたが、姉も承知のことだと聞いて二重の驚きであった。
『姉を知っておられたのですか? だったら、初めから離婚するつもりで私を籍に入れられたのですか?』
吉川は故郷で秋津の父に就職などで何かと世話になっていた。その恩返しの意味も含めて、秋津由美子の申し出を引き受けたということであった。
そう言われてみれば、姉の態度にもどこか違和感を覚えたし、吉川とも初めから夫婦の距離感ではなかった。
『実は婚姻届は今も私の手元に保管してあるので、貴方の籍は秋津のままだし、私の籍に入っていません』
確かに結婚式も挙げずに、姉が上京して形だけの儀式だけで済ませていた。柊はこれ程の重大事を今まで知らされずにいたことに憤慨していた。
『私のためとはいえ、それこそ人権無視で酷くないですか……姉もそうですが。
婚姻届けのことも詐欺にあったようで……』
何となく奇妙な生活だと疑っていたが、考えてみれば吉川も自分のために犠牲になってくれていた。彼の話によれば、これまでの生活費は秋津の実家が全て負担していたという。吉川はこれで心置きなく故郷で療養できるとも言った。
『由美子さんは昔から矢納君を信頼されていたので、何とかしてお二人を一緒にさせたい思いがあったのです。だから、彼を観察するように頼まれていたので夕食に何度も招待したのです。私も矢納君と接してみて、彼なら出自などに拘らずに君を大切にしてくれると思いました……』
柊は吉川の話しを聞きながら、姉というよりもあの渡辺夫人ならばあり得ることだと思っていた。今にして思えば、十年前の盆の時も、わざわざ家事にかこつけて離れ家の渡辺家に泊まらされたのも姉の企みであった。
『矢納君と横浜の駅前で再会した時の君の落胆ぶりから、君がまだ彼を愛していることを確信したのです。そうするうちに、私の病状が悪化して会社も倒産したので……こうして何もかも白状せざるを得なくなったが、これまでのことはどうかご容赦ください……』
突然に五年間が偽装結婚だと言われても、柊の心は暫く整理がつかなかった。だが、その事実を知れば離婚届けのサインも意味のない手続きであったが、それで吉川と別れる決心がついたことは確かであった。
逢瀬
「君は身も心も穢れていないのだから、今度こそ躊躇わずに矢納君の胸に飛び込みなさい……。そうしてくれれば由美子さんも喜ぶし、私も安心して田舎で療養できるから……」
先ほど、家を出るときに吉川から贈られた最後の言葉だった。
柊は紅茶を飲み終えると思い立ったように東京駅に逆行して、八重洲口の公衆電話から丸の内のNエンジニアリングに電話した。
「もしもし、仕事中すみません。秋津ですけど、お元気ですか……」
偽装結婚と分かった以上は吉川を名乗るのも憚れたので、敢えて秋津姓を名乗っていた。
「お久しぶりです……。その節は大変お世話になりました」
いつもは先輩然とした柊であったが、この時はどこか沈んだ声音だった。
「突然ですけど、今日の夕方にお会いできないかと思って……」
「今日ですか……」
孝夫にすれば人妻となった柊への未練にやっと見切りをつけた時だけに、会えば元の木阿弥になる恐れがあった。
「……夕方の四時に八重洲口でよろしいですか?」
孝夫も忘却の苦悩を忘れたわけではなかったが、催眠術にかかったように柊の呼び出しに応じていた。
八重洲口で柊の姿は直ぐに目に入った。
百七十センチの長身をトレンチコートに包んで、フォックスファーのマフラーで防寒していた。私の姿が視野に入ったのか、待ちわびた恋人のように駆け寄って来てヘーゼルの瞳を和ませた。
「奥さん、お待ちになりました。寒かったでしょう……」
腕に絡ませてきた柊の手の感触を意識しながら、孝夫は少し距離を置いた代名詞で挨拶した。
「久し振りに逢ったのに……他人行儀に私を遠ざけたりして、つれない人ね……。高校時代の孝ちゃんは何処に行ったの……」
暫く見ないうちに、柊からは三十歳前の成熟した色香が滲み出ていた。柊のヘーゼルの瞳が悲しげに私を睨んでいた。
「いえ、そういうつもりでは……。でも私たちは距離を置いた方が吉川夫人の為なのです……。駄々を捏ねて私を困らせないでください」
私が高二の盆に告白したことがあったが、その時に柊が返事に窮して思わず突いて出た言葉がそうであった。カトレアに怒られるのを承知でため口を利いたが、それは柊への気持ちを抑えるためでもあった。
「それって、昔、わたしが貴方に言ったフレーズではなかったかしら……。先ほどから何? わたしを突き放すようなことばかり言って冷たいのね。奥さんとか、夫人ではなく昔のように柊さんって呼んで……」
その時は、柊が最後に付け加えた言葉の裏側を考えもしなかった。
時折、ビルの谷間を雪が舞うと、柊は温もりを求めるように体を寄せてきた。その所作がいじらしくて、絡めた腕をそっと引き寄せた。彼女の柔らかい左半身が密着して寒波も気にならなかった。
この初恋人と結ばれなかった運命を今更ながら悔やんでいた。以前のように感情の赴くままに行動することは許されなかった。今の彼女は人妻であり、都会人はそういう不義の私たちに目もくれずに通り過ぎて行った。これが田舎であれば人目を忍ぶ逢瀬であったが……。
「東京に転勤してから、どうして連絡くれなかったの……」
柊は再び駄々を捏ねたが、それは横浜で彼女に二度までも背を向けた私への精一杯の抗議かもしれなかった。
「吉川さんのお宅で新妻ぶりを目にして、俺は邪魔者だと悟ったのです……。だから、東京に転勤した時に二度と連絡しないと自分に誓っていたのです」
横浜で再会した年の十二月に、どうにもならない現実から逃げるようにして東京本社に転勤していた。だが、会えなくなればなったで、柊への思慕が募った。
「邪魔者だなんて……嫌な思いをさせていたのね、ごめんね……」
作品名:ウラバンナ(青春紀ー2) 作家名:田中よしみ