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田中よしみ
田中よしみ
novelistID. 69379
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ウラバンナ(青春紀ー2)

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私はハウスマヌカンとして働いてきただけに、男性の服装にも敏感だった。
「彼女なんていませんよ……、一度だって。スーツは会社に出入りしている仕立屋任せです……」
当時は大手企業の昼休みや独身寮にデパートの外商が出入りしていたので、孝夫の言うことには信ぴょう性があった。彼が意固地になって否定しているのを見て、今でも心変わりしていないことが感じとれた。
「そうなの……、二十三歳になっても、まだ彼女がいないの……。わたしがいい人を紹介してあげてもいいわよ……」
そうであるならば約束を反故にした事情が何であれ、連絡をくれなかった孝夫を恨んだ。その恨みが緋色に塗った唇から棘となって放たれた。
「いえ、私は今でも柊さん以外に興味はありません。この後食事にでも行きませんか? 渡辺夫人のことも聞きたいし……」
私も六年振りの再会に感動していたし、彼の誘いは嬉しかった。だが、結婚したばかりの私には彼との会話が辛かったし、これ以上いたたまれない思いだった。
「折角だけど、今日はこの後予定があるの……。小母ちゃんにもよろしく伝えてね……」
彼に結婚したことを隠したまま喫茶店で別れた。これで矢納孝夫との関係が何もかも終わったことを自分に言い聞かせた。その一方で、これまで封印していた彼への思いが沸々と湧き起こってくるのを止めようがなかった。


人妻
 それから数日後に、柊から電話で夕食の招待があった。
「今度の日曜日に、わたしの家に遊びに来ない……手料理を作って待っているから……」
折角の再会も虚しい別れ方で終わっていたので、思わぬ電話に再び柊への思いを膨らましていた。柊との二人きりの時間を思い描いて、指定された日曜日の夕方に自宅を訪問した。意外にも、独身寮から歩いて行けるほどの近距離だった。
そこは一団の土地に同じ仕様の古い戸建て住宅が並んでいたが、独身女性が住むというよりも社宅のような雰囲気があった。
柊が指定した古めかしい玄関には“吉川弘文”の真新しい表札が下がっていたが、その横に“柊”の一文字が刻まれていた。

 秋津柊の独り住まいを想像していただけに、秘かな期待はこの表札によって無残にも瓦解した。その場に辛うじて踏みとどまったのは、柊との約束を二度までも違えるわけにはいかない義務感からであった。
玄関の呼び鈴を押すと、新妻を思わせるような和服の上に真っ白い割烹着姿で柊が現れた。そして、柊の後ろで吉川弘文らしき人物が笑顔で迎えてくれた。
彼は一回り年上に見えたが、およそ柊には不釣り合いな中年男だった。柊ほどの魅力的な女性であれば、もっと若くて都会人らしい男がパートナーに相応しいと思った。それは彼への嫉妬からきた焼きもちかもしれなかった。
吉川と酒を酌み交していると悔しい程に大人の風格があった。彼はアルコールをあまり嗜まなかったが、初対面の私を終始和やかにもてなしてくれた。彼は中堅の化学工場の技術者として働いていた。柊とは関東地区の同郷会で知り合ったとのことで、この三月に結婚したばかりであった。

 私は新婚家庭に招待されて、絶望に打ちひしがれて祝いの言葉さえ失くしていた。夕食に招待してきた柊を恨めしくさえ思った。と、同時に、招待を都合の良いように解釈して、のこのこと訪問した自分の馬鹿さ加減にもあきれていた。夫の吉川に私との関係をどのように説明したのかは分からなかった。結婚しているのであれば喫茶店で別れたままの方がよかった。
吉川家を酩酊状態で辞したが、柊の夫はこれからもご飯を食べに来るように親切な言葉をかけてくれた。吉川から気遣いされるたびに、私の初恋心はズタズタに傷ついていった。
その夜は歓楽街で酔いつぶれたが、その怒りの矛先は柊との約束を反故にした自分にしかなかった。その後も柊から誘いの電話があれば未練がましく吉川家の敷居を跨いでおり、その夜は決まって歓楽街で酔いつぶれた。
吉川弘文は付き合う程に誠実で温厚な人柄であり、柊を大切にしていることも窺えた。その吉川家の和やかな雰囲気は柊の幸せを保証するものであった。
私が柊の幸せを願うならば、人妻になった柊への未練を断ち切ることしか他に選択肢はなかった。

 八月に入ると、吉川家の玄関先の朝顔の弦が紫色の花をつけたが、独身寮のベランダで育てている朝顔と同じ色であった。それは柊からの別れのサインのようにも思えたが、夏が過ぎても人妻への未練を断ち切ることはできなかった。
この負のジレンマから抜け出すために、私は予てより打診のあった本社経営管理部への転勤を申し出た。来春に夜間大学を卒業する見込みだったので、その年の十二月に東京本社へ転勤した。結局、柊とは再会して半年余りが経っていたが、彼女を忘れるための転機にするつもりでいた。
吉川家には転勤の際に一度挨拶に行ったが、独身寮が多摩川に移ったのを機に柊との一切の接触を絶って仕事に没頭した。
丸の内にあるNエンジニアリングの経営管理本部は、グループ企業の統廃合と新組織の体制作りで多忙な日が続いた。仕事に没頭する日々は柊を忘れさせてくれたし、幸いに彼女からも連絡がなかった。人は忘れたくないことまでも時間の経過と共に少しずつ忘れていくので、秋津柊のことも時間が解決するものとばかりに思っていた。
本社に転勤して二年が過ぎた頃に、吉川弘文が勤務する工場が倒産した。柊からは何の音沙汰もなかったが、吉川家は途端の危機に襲われているはずだった。


シェルター
 札幌オリンピックが閉幕した二月上旬、東京が珍しく雪に見舞われた日があった。この日、柊は離婚届にサインして九州に旅立つことにしていた。吉川弘文も相前後して数日後には故郷で療養することが決まっていた。
倒産後は社宅の猶予期間があったが、それも来月取り壊されることになっていた。吉川弘文との夫婦生活は五年で何もかも終わりを迎えていた。
柊は吉川弘文に別れの挨拶をして家を出た。門の前で見送ってくれている彼を一度だけ振り返ったが、柊は名残を振り切るようにして横浜駅に向かった。
吉川家に居たたまれずに出てきたので、九州行きの夜汽車にはまだ十分に時間があった。駅前の喫茶店で紅茶を飲みながら雪のちらつく街を眺めていた。
この横浜の街で五年前に矢納孝夫に巡り逢ったが、喫茶店はその時の思い出の店だった。
柊の心には孝夫に再会した時から背徳の揺らぎが芽生えていた。直ぐに彼が東京に転勤したので揺らぎは柊の中だけで止まっていた。
吉川との生活は一回り以上の年齢差もあったが、夫婦と言うよりも兄妹のようにプラトニックな毎日だった。彼は柊を優しく包み込んでくれたが、初めの夜から寝室は別々で柊の体に触れることはなかった。
その頃の柊は孝夫との破局で喪失感の最中にあった。だから、そういう生活スタイルの方が柊には居心地がよかったのかもしれなかった。
吉川弘文との日々は傷ついた柊の心を癒してくれたが、そういう生活が続くと、彼女も違和感を覚えるようになっていた。それは柊の心が癒えたことによって、心理状態が異常から正常に戻った証拠であった。
柊は彼が糖尿病からEDという病を発症していることを知ったが、矢納孝夫が本社に転勤した頃から吉川の病状は進行していた。