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田中よしみ
田中よしみ
novelistID. 69379
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ウラバンナ(青春紀ー2)

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ウラバンナ(青春紀2)

社会人
 高校を卒業すると、内定していたNエンジニアリングの横浜工場経理部に入
社した。故郷と違って、都心は東京オリンピック景気に湧いていた。
社会人の第一歩は導入教育から始まり、五月の連休明けに職場に配属された。
小高い丘陵地にある7階建ての独身寮は完成したばかりで、屋上からは港が一望できた。
部屋は二人部屋の洋室で、共有スペースにはカラーテレビがあった。テレビの前には寮の主が陣取っていたが、入寮したばかりの私はオリンピックを楽しむゆとりはなかった。

 入社式では“前途洋々たる未来が拓けている”と訓示があったが、直ぐにそれは大卒新入社員の未来であることが分かった。伝統ある一流企業に入れば安定した人生が保証されていた。それだけに入社時からキッチリした未来が従業員制度によって規定されていた。
従業員は入社時に職員と工員の身分に別れており、江戸時代の身分制度のように工員が職員の身分に成り上がることはなかった。
高卒の私は職員試験を受けて採用されたが、職員は更に大卒と高卒によって身分が分れていた。軍隊と同じように大卒は幹部候補生であり、高卒は第一線の兵隊としての未来が定まっていた。
経理部には高卒のベテラン社員が生き字引のように配置されていた。彼等は重宝されたが、どんなに高度な知識や能力があっても年下の大卒社員の職位に肩を並べることはなかった。古参係長もかつては高校を優等で卒業して入社しており、若い頃は私と同じ苦悩を味わったはずであった。
世間を見れば給与も高く福利厚生も充実しており、この恵まれた条件を投げ捨ててまで転職することはできなかったのであろう……。
この現実が高校時代に分かっていれば苦学をしても大学に進学したものをと、臍を噛む思いであった。
高卒社員は能力があっても大卒並みに扱われることはなく、入社時の身分は退職するまでついて回った。その現実を前にして十八歳の青春は屈折していき、“都会に行けば働きながらでも大学に行ける”と言ったカトレヤの言葉が思い出された……。
上京した時に、東京に住んでいる秋津柊との再会を忘れたわけではなかった。だが、女子大生として青春を謳歌している彼女に、高卒の私がおめおめと会いに行く気分にはなれなかった。

 入社して五年目の春闘は労使交渉が決裂したために、経理部に重点ストが打たれた。四月は年度末決算の最中にあり、プレス発表や株主総会までの日程は押さえられていた。会社側もストで決算作業を止められることは痛手となったが、労組もそれを狙っての重点ストだった。
その影響を直接受けるのは組合員である経理部員であり、ストの時間だけ実働時間が削られるのでスト明け後は深夜残業が続いた。
その日はストのために職場仲間と従業員倶楽部で時間を潰していたが、夕方になって独身寮に帰るところだった。
「孝ちゃ~ん」
商店街は夕方の買い物客で混雑していたが、雑踏の中から呼ぶ声がした。
「孝ちゃんでしょう? こういうところで会うなんて……」
まさかと思いながら振り返ると、若い女性が長髪を乱して手を上げながら走り寄って来た。実に六年振りの再会だったが、高校時代の面影はなく都会のレディとして一段とあか抜けていた。彼女にしてもイガグリ頭の私しか知らないはずであり、スーツ姿に驚いた様子であった。
「あ、秋津先輩!」
故郷から千㌔も離れた異郷での不意の再会であり、私も思わず駆け寄っていた。
彼女は髪を肩まで伸ばしてヘーゼルの目元を薄くメークしており、生来の美貌が都会生活で一段と洗練されていた。
「こんなところで先輩って言うな!」
彼女は昔ながらのタメ口をきいたが、渡辺夫人の面影にそっくりだった。
「今、横浜の大学に通っているの?」
「あの盆の翌年に親父が亡くなったので、高校卒業後はNエンジニアリングの工場で働いています……」
私は昼間働きながら夜間大学の商学部に在学していたが、柊には敢えて言わなかった。
「小父さんも病気がちだったから……。あなたも苦労したのね……。ストなら時間はあるでしょう、久し振りにそこの喫茶店で話さない?」
柊は父の死を知ってヘーゼルの瞳を曇らせていた。
奥のボックス席に落ち着くと、柊からは都会のレディの匂いがした。

「横浜の街で偶然に会うなんて……六年ぶり? 人間の意思を超えての巡り合わせって、本当にあるのね……」
柊は感慨深げに言うと、緋色の唇を上品にすぼめながら紅茶を一口啜って、器用に指先でカップの縁を拭いた。
「上京してからは、ずっと独身寮に入っていたの?」
この質問の先には、再会の約束を破った咎を受けることが予想された。
現在は学歴の壁に悩まされながらも、経理マンとして一人前の地位を確立しつつあった。だからといって、今さら自分の都合だけで彼女に取り入ることは許されなかった。
「ええ、入社以来ここの独身寮にいます。今日はストなので倶楽部で麻雀して、これから寮に帰るところでした……」
私は約束を反故にしたばつの悪さから煙草に火を点けたが、柊は私の口元をじっと見ていた。
その頃従業員制度に直面して悩んでいたとは恥ずかしくて到底言い訳できなかった。
「わたしが東京の女子大に進学したことも、下宿の連絡先だって知っていたのでしょう? 横浜に住んでいたのなら、どうして連絡くれなかったの?」
彼女も直ぐに理由を訊きたがる生き物だった。
「すみません、連絡先が分からなかったので…………」
私は咄嗟に含みをもたせた言い訳をしたが、大学進学を断念した時からカトレヤを諦めていたのである。だが、その後も彼女への思いを断ち切ることができなかったというのが正直なところであった。


手紙
「えっ? わたしの連絡先を知らなかったの? あなたが高校を卒業した時に池澤君から手紙を受け取らなかった?」
孝夫と盆に約束したものの、その後彼が家にレコードを聴きに来ることもなかった。彼を駅で見かけても素知らぬ振りをしていたので、上京する時にわざわざ孝夫宛ての手紙を書いて池澤捷一に託していた。
手紙には、私の気持ちをしたためて、東京での下宿先の住所と電話番号の他に、朝顔の種を持ち寄ることも書き添えていた。その手紙を高校を卒業した時に、池澤捷一から渡してもらう手はずになっていた。だから、私はその手紙が孝夫に渡っているものとばかりに思い込んでいたのである。
「手紙って一体何のことです? 彼から手紙をもらった覚えはないけど……」
これまで孝夫から連絡がなかったのは私の出自のことだと思っていたので、彼との再会を諦めていたのである。それが、こうして横浜の街で巡り逢ったのだから、皮肉な運命に戸惑っていた。
私が彼の心変わりだと受け取ったのは早計かもしれなかった。現に彼は、私を避けている様子もなく、高校時代と変わらぬ近さで接してくれていた。
約束を反故にした詫びと後悔が彼の言葉の端々に感じられて、むしろ彼を信じて待たなかったことを悔いていた。
だが、私はもう取り返しのつかない新しい人生をスタートさせていた。そのことを彼に告白すべきか、窓の外を見ながら悩んでいた。結局、手紙の行方を封印することにして話題を変えた。
「そのスーツとネクタイ、孝ちゃんのセンス? それとも彼女の好み?」