Shellshock
八女が二階から仮眠スペースを見下ろしていると、寝袋が動いて松戸が起き出した。
「起きてんのか」
松戸は寝袋を押しのけると、体を起こして二階への階段を上がった。八女の隣に立つと、くしゃくしゃになったマルボロの箱がポケットから出てきて、松戸の方へ一本が差し出された。契約期間は三年、国内の仕事で、しかも主な内容は『諜報』だ。時差ボケを解消したところで、一般人に成りすます以外にやり方はない。暴力の応酬になるとすれば、それは相手からになるだろう。松戸はマルボロに火をつけて、煙を深々と吸い込んだ。八女はタイミングを合わせるように深呼吸すると、言った。
「三年って、すごいですよね。終わったら私、二十八なんですが」
「おれは、三十八だな」
「そりゃ、そうでしょう」
八女が白い歯を見せて笑い、松戸は煙を吐き切った。
「ただの足し算だろ。何が違うんだ」
「私達は、探偵じゃないのに。国内では、ルールが何もかも違います」
八女は呟くように言った。銃声というのは、海外では日常的に『戦闘』として捉えられる。しかし、国内なら大騒ぎだ。仮に撃つとしても、薬莢から弾倉まで全てを回収する必要がある。だから、ランドクルーザーの荷室には、行き場を失ったように各人の装備がすし詰めになっている状態だ。松戸のバックパックには、シグP228とMP5Kサブマシンガン。両方にサプレッサーが装着されている。大橋と別所の鞄には、MP5SD6サブマシンガン。八女は、より小型のサプレッサーが溶接された32口径のVZ61サブマシンガンを持っている。国内で活動する上で、最小限で最大の効果を発揮するための装備。しかしそれは、戦闘になった場合の話だ。今回の仕事の性質を考えれば、ただの荷物でしかない。
八女は、松戸の横顔を見ながら、マルボロの箱を探った。松戸に煙を提供しているのが最後の一本だったということに気づき、前に向き直った。畑違いの楽な仕事。探偵ごっこ。呼び名は何でもいい。麻薬で頭がおかしくなった依頼主の気まぐれであればいい。
三年も一般人として振舞えば、もう元には戻れなくなる。
二〇二二年 四月 現在
青山は、自分の存在を無視するように再び歩き去った影を目で追っていたが、見えなくなったことを確認してから深呼吸した。とどめを刺すつもりはないらしい。元々は、古くなった排水工事の依頼だった。見積もりに伺いますと業者が言い、日程調整をしたのが先週の話。変更依頼のメールが来た時点で、それが業者ではない誰かだと疑っておくべきだった。この話がどうにかして誰かに伝わっていたに違いない。今日見積もりに現れたのは営業車としてよく使われる白のカローラハイブリッドで、その点も違和感はなかった。だから、降りてきた女が握手を求めて手を差し出すまで、その目をまっすぐ見なかった。遠い昔に散々見たはずなのに、日常生活を送る中ですっかり忘れていた。この手の仕事をする人間は、生きている者同士として会話をしない。相手が死んだ後の姿を見通している。撃たれたことで強制的に頭が切り替わり、捨てたはずの記憶が蘇っていた。
息を殺しながら立ち上がると、青山はルガーSP101を保管している棚の方向へ目を向けた。ちょうど影が消えた方向とは逆方向にある。一日のほとんどを過ごす部屋に置かれた棚の、上から二番目。いざというときにすぐ手に取れるよう場所を吟味したつもりだったが、それは玄関で撃たれる予定がなかったからだ。
足を洗うなら初めから距離を置いていればよかったのだが、なんとなく内容を理解してながら知らない振りをしてやっていた麻薬の運び屋から、契約殺人を扱う組織の手足となったのは、アメリカと中東の間で戦争が始まった年だった。よく覚えているのは、麻薬産業が引っ掻き回されることになると、龍野がしきりに話していたから。人生を一変させた人間関係。良く出入りするクラブで墨岡に声を掛けられたところからスタートし、まず同年代の稲場に紹介された。次に龍野と岩村。少しずつ危ない人間に顔を通され、最後に龍野と岩村が取り扱う三人の『商材』に会った。それが村岡と柏原、そして佐藤。稲場はヤボ用で動けず、『一人で行け』とあしらうように言った。顔合わせをしたのは、ただでさえ真っ暗な港の、さらに光が入らない奥の一角だった。
青山は十分前まで腰を下ろしていた座布団をやりすごして、棚の二番目を静かに開いた。息を完全に吸い込んで吐くことはできないが、戦うことはできる。ハンカチで半分隠れたルガーSP101のグリップを掴んだとき、足音が近くで鳴り、青山は静かに棚を閉じるとベルトの後ろ側にルガーを挟み込んだ。記憶が蘇るというよりは、入れ替わっていくような感覚。元に戻ったとも言える。命を落とすという選択肢が日常の一部になっていた、若い頃の自分。息が続かなくなり、青山は元の壁まで戻ると、腰を下ろした。全身に棘がついたギブスをはめられたように窮屈で痛いことには変わりないが、腰の真後ろに差したリボルバーのごつごつした金属感は、全身に染み渡る鎮痛剤のような役割を果たし始めている。不便で不格好な上に、撃つと耳が潰れそうになるぐらいにうるさい代物だが、どこかでその不便さは、安心感に変わる。
「おい! 何を探してる」
青山は、腹に力を入れて言葉を発した。新たな仕事を始めて一年ぐらいは、平穏に過ぎた。龍野が吸い込む『処方薬』の量は少しずつ増えていたが、まだ正気だったように思える。事前の偵察や買い出しといった雑用は続いていて、この年に確か、稲場と藤谷が結婚した。岩村によく飲みに連れてもらっていて、色々とアドバイスをもらっていたようだが、それを墨岡や自分と共有することはなかった。
相変わらず龍野は連絡がつかないことが多かったし、火種はどこかで静かにくすぶっていたが、良く見えなかった導火線に火花が突然上がったのは、そこからさらに数年が経ったときだった。
作品名:Shellshock 作家名:オオサカタロウ