Shellshock
三
二〇〇六年 一月 十六年前
朝四時半、ぱちりと目が開いた留美は、ソファで横になっている稲場に気づき、声を掛けようとしたところで口元を押さえた。あの顔は、相当疲れていた。自分がかけていた毛布を上からそうっと被せて洗面所に入り、直射日光のような明るさの電灯に顔をしかめながら、留美は自分の顔を見つめた。
「うーん」
元々、独り言が出るタイプではなかった。稲場がいるから、頭の中で言葉を止めていた栓が外れたままになって、独り言という名の呼びかけになってしまっている。ちょっと、動ける顔つきじゃない。留美はそう思いながら、稲場の方を振り返った。見事にソファと一体化していて、やはり動かすのは可哀想に感じるし、せっかくなら驚かせたい。お酒を飲まずに迎えた休日の朝は、お互いが朝の八時に起きる。一緒に朝ごはんを作り、何か特別なことがあって豪華なときは、デジカメで写真を撮ることもあった。その基準に当てはめれば、今日は間違いなく、その日だ。
辞めるなんて言葉が出るとは、思ってもいなかった。留美は眼鏡をかけて、花粉症用のマスクをつけた。その上で野球帽を被ると、素肌がほぼ何かで隠された代わりに、怪しさだけが増幅された顔になった。その奇妙な恰好にひとしきり笑った後、留美はジャージ上下に着替えてコートを羽織り、ウィンダムの鍵をそうっと掴んで、最後に思い出したように書置きを残した。
ウィンダムに乗り込んでエンジンを掛けると、稲場が直前まで聴いていた曲の続きが流れ出した。ホワイトストライプスの『セブンネイションアーミー』。リズムに合わせて頭を小刻みに振りながら、留美はウィンダムを駐車場から出した。ただでさえ暗い国道は先の方で本当の真っ暗闇に吸い込まれていて、ハイビームに切り替えると、留美はアクセルを深く踏み込んだ。
携帯電話の着信音で、稲場は目を覚ました。ソファの形に折りたたまれた体があちこち痛み、大きなくしゃみをしたとき、ベッドの上にあるはずの毛布が自分に掛けられていることに気づいた。留美がいない。テーブルの上に書き置きがあり、稲場はそれを手に取った。
『ちいっと、マザーシップまでいってくる』
レバーパテを買いに行ったのだ。稲場は目を忙しなく瞬きさせながら、体を完全に起こした。左手が無意識に携帯電話を探り、雑誌の上で震えているのをようやく捕まえた。通話ボタンを押すと、墨岡が言った。
「おう、こんな時間にすまん」
「墨岡……、大丈夫か?」
稲場が言うと、墨岡はしばらく黙っていたが、険しいままの口調で言った。
「寝起きか?」
「まだ、寝ぼけとるわ。テレビのリモコンもあらへん。で、どうした?」
稲場はそう言ったとき、電話の向こうで墨岡が首を横に振ったのが分かった気がした。
「いや、さっき俺に、気をつけろって言ってたやろ。あのとき、それはお前も同じやぞって、言い忘れたから」
「はは、そんなことかいな。ありがと」
稲場はそう言って、通話を終えた。妙な電話だ。目が変に冴えて、声が服に染みこんだ泥のように、こすればこするほど頭の中で広がっていくようだ。稲場は壁からかけたジャケットの方へ視線を向けた。不自然に垂れ下がっているのは、文鎮のようなタウルスM85がポケットに入っているから。稲場は、留美の携帯電話を鳴らしたが、すぐに留守電に切り替わった。ジーンズに着替え、拳銃に引きずられてぶらつく上着を掴むと、自転車の鍵を持って家から飛び出した。
片側一車線の直線道路に入り、ぎらつく『凍結注意』の電光掲示板をやり過ごしたとき、留美はウィンダムのスピードを少し落とした。サプライズのつもりで出て来たけど、割と本気で怖い。こんな時間に取り締まりはないだろうが、道路脇が真っ暗な状態だと、何が潜んでいるか分からない怖さがある。遠くに、砂利敷きの自販機コーナーが薄明りに照らされているのが見えて、留美はそこを目標にするように、唇を結んだ。
自販機の影になる位置に停まる黒のランサーがのろのろと動き出し、留美のウィンダムが通り過ぎるのと同時に本線に合流した。留美は下り坂に差し掛かって、シフトレバーをドライブからセカンドに入れた。エンジンが高く唸り出したとき、バックミラーに映る照明柱の光が遮られたことに気づいて、留美は目を向けた。誰も後ろを走っていないと思っていたのに、さっきのランサーがいる。ヘッドライトが点いていないから、全く見えなかった。ものすごいスピードだ。留美がそう思ったとき、大橋の運転するランサーは少しだけ進路を変え、ウィンダムの右リアフェンダーを斜めに押した。バランスを崩したウィンダムは右に振られた後、その反動で左に大きく姿勢を崩し、歩道と車道を分けるアイランドに激突した。大橋は急ブレーキを踏んでランサーを転回させると、アイランドと一体化したように破壊されたウィンダムの運転席を塞ぐように停めた。別所が助手席から降りて、粉々に割れたサイドウィンドウから中を見るなり、顔をしかめた。
「別人だぞ。女だ」
エアバッグは開いたが、衝撃でエンジンルームが車内に入り込んで、運転していた女の両足はその真下に巻き込まれていた。別所は、ランサーの窓を下ろした大橋の方を向いて言った。
「車は合ってるけど、人が違うぞ」
大橋は自分の仕事ぶりに問題はないと言うように、肩をすくめた。別所は、女に向き直った。
「あんた、稲場幸一の知り合いか?」
「妻です……」
かろうじて意識のある留美は、ガラスの破片で片目しか開けられないまま、言った。
「あの、警察……」
別所は大きな体を揺すって笑った。
「いやいや」
銃が使えないことを思い出し、別所は身動きが取れない留美の気道を手で押し潰して、窒息死させた。ランサーの助手席に乗り込んで、大橋に言った。
「嫁だったわ。結果オーライか?」
「オーライなわけねえだろ、松戸に連絡しろ」
大橋が吐き捨てるように言うと、ランサーを再び転回させた。現場から離れる必要がある。下手をすれば、このまま地の果てまで走った方がいいかもしれない。
息が上がり、上り坂に差し掛かってからはさらにひどくなった。稲場は自転車のギアを変えながら業務スーパーへ続く真っ暗な道路を走り続けた。直感がありとあらゆる危険信号を発している。砂利敷きの自販機コーナーが見えて、真っ暗闇に吸い込まれるような、長く続く下り坂に差し掛かった。最初のゆるやかな左コーナーを抜けたとき、稲場は自転車のブレーキを掛けた。左に少し傾いたウィンダムから、白煙が上がっている。ブレーキランプはぼんやりと点灯し、アスファルトを赤く照らしていた。稲場は自転車から降りると、歩き出した。足が走ることを拒否するように重くなり、自転車で駆け付けるなんて、もってのほかのように思えた。
「留美」
呼吸をするように、無意識に名前が飛び出した。稲場は運転席の前に立ち、首を真横に垂れたまま動かない留美を見つめた。
「おい、もう無理か?」
作品名:Shellshock 作家名:オオサカタロウ