Shellshock
墨岡は無言でリュックサックの蓋を開くと、青山から受け取ったばかりのタウルスM85を取り出した。稲場はそれを手で押し返そうとしたが、墨岡は強引に手渡して、言った。
「急ぎで青山に用意させた。俺は自分の銃があるけど、お前はないやろ? とりあえず持っとけよ。もう今から、一緒に来られへんか?」
「何を言うてんねん、留美がおるんやぞ。夫婦なん忘れたか?」
「留美も起こせよ」
墨岡の、焦りに食らいつかれたような口調。それ自体が珍しいことだ。稲場は眉をひそめた。
「お前が代わりに、起こしてこいや。おれは八つ裂きにされたくないわ」
「ほんまに無理か。今日だけ抜け出すとかでもいい」
墨岡が食い下がり、稲場は宙を見上げた。
「おれは大丈夫や。お前こそマジで、しばらく身を低くしとけよ。いきなり佐藤が来て、次には頭が消し飛んでるかもしれんのやから」
「分かった」
そう言うと、墨岡は諦めがついたように踵を返した。稲場は慌ててタウルスを上着の下に隠すと、後ろ姿を見つめた。直感と計画の狭間で生きる男、墨岡。頭の中に危険信号を埋め込みすぎておかしくなっているのは、こちらも同じだ。
部屋に戻り、タウルスを上着のポケットに入れたまま、ベッドの前にそろりと近づいた。留美は起きていて、涙で光を跳ね返す大きな目が見返していた。
「辞めるの?」
ずっと起きていたのだ。稲場は観念したようにうなずくと、喉の辺りで何年もつっかえていた一言を言った。
「辞めるわ」
稲場は、今度こそ本当に体を丸めて眠りに落ちた留美から離れると、寝間着に着替えて、歯磨きをし、鏡に映る自分の顔を見つめた。ゴールが示されない作業を延々とやってきたような、疲れた顔。ずっと洗濯機の中で回されていたように、角が削られてぼろぼろになっているように見える。今まで、最も寛げるはずの家の中で、こんな顔をしていたのだ。
問題は、この変化で一歩引いたのか、前へ出たのか。それが分からないということ。ただ、ソファに座って音を消したテレビをつけても、やましい気分にはならなかった。単に、仕事が遅くなって帰ってきただけの、ただの人だった。
それを演じるように、稲場はそのまま横になり、目を閉じた。
二〇二二年 四月 現在
足音が戻ってきて女が再び姿を現す直前、青山はすぐに銃を抜いて引き金を引けるように、ルガーが挟まっている腰の後ろ側を少しだけ浮かせた。拳一つ分入る隙間さえあれば、造作もない。与えられていた役割は使い走りだったが、手近に軍事基地のような装備が転がっている状態が三年もあったから、時折在庫を手に取って、構造の勉強や操作の練習をしてきた。墨岡や稲場に差をつけたかったわけではない。ただ、普通に生きていれば確実に触れることのないものが目の前にあって、管理を任されていたから機会を生かしただけのこと。今思い返せば、やるべきことがはっきり決まっていた当時の方が、この人目を避けた生活よりもはるかに楽だった。気分屋な龍野の機嫌を窺い、岩村とは緊張を強いられるやり取りをして、墨岡と稲場の二人とは、時折飲みに行く。仕事はとにかく『覚える』ことで、メモは残さない。
女が再び目の前に立った。右手にはまだ、45口径の拳銃が握られている。職業病のようにその特徴を捉えた青山は、ナイトホークT3だと気づいて、言った。
「高い銃を持ってきたな」
女は手元に視線を向けることもなく、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。現代の『商材』。いつだって、この手の仕事をやる人間というのは、保険か不動産を売っているように見える。青山の視線に気づいた女は、愛想笑いを返した。
「確認するよう、何点か依頼されています。答えてもらえますか」
「いいよ。どうぞ」
青山は呟いた。この手の人間に対して最も無意味なのは、命乞いだ。殺すためにわざわざ来た人間が、考えを変えることはまずない。女はメモに視線を落とした。仮に今ルガーを抜こうとしても、手を後ろに回した段階で撃たれるだろう。
「あなたは二〇〇六年に、当時住んでいた町を出ました」
青山はうなずいた。その年に起きたこと以外で、誰かがここへやってくる理由はない。女はスマートフォンから視線を外すと、続けた。
「翌年の秋に、都心部で道路工事の作業員として働き始めた。期間は一年半」
青山は体を強張らせた。地元から遠く離れて都会に紛れ込み、道路工事の仕事に就いた。身元保証の必要のないグレーな職場で、生活を軌道に乗せるためだけの味気ない仕事だった。
「そうやな」
青山が呟くと、スマートフォンに視線を戻した女は、細く整えられた眉をひょいと上げた。
「二〇〇七年から二〇一二年までは、同じ都市でラウンジの黒服」
「おい、待て」
青山は、女に対して初めて、はっきりと意思を示した。女はその語気に気圧されたように、顏を少し引いた。青山は、スマートフォンを神経質な手つきで指差した。
「そこに、全部入ってんのか? おれが今まで、どこで何をしてきたか」
「私は、書いてある通りに、伝えているだけです」
女は愛想笑いを浮かべると、スマートフォンの画面に戻って、仕事を続けた。
「二〇一三年から二〇一八年まで、金融詐欺グループの一員。引退して、この家を買って引っ越した。現在に至る」
青山はうまくいかない呼吸を整えながら、最大限の力を込めて愛想笑いを作り、力なく拍手をした。
「お見事。お見事やわ」
「私が調べたわけではないんですが」
女はスマートフォンの画面を目で追いながら、呟いた。青山は女を少しでも人間の世界へ引き戻そうとするように、しかめ面で言った。
「つまりおれは、ここまで生かされたと。そう言いたいんやろ?」
「依頼人の意図は、分かりかねます」
そう言うと、女は続きを読み上げた。
「二〇〇六年から今までの人生を、総括してください。いかがでしたか?」
その淡々とした口調に思わず笑い、青山は呟いた。
「クソやったよ。墨岡と稲場、おれ。三人で雑用やってるときが、一番楽しかった」
実際声に出してみると、本音は単純そのものだった。女はスマートフォンの録音アプリを起動すると、言った。
「二〇〇六年の一月、町を出るきっかけになった出来事が起きていますよね。あなたの目線で何が起きたのか、教えてください」
青山はうなずいた。そして、事情を知りようのない女に向かって、弁解するように言った。
「最初に断っとく。あれは全面的に、墨岡が悪い」
作品名:Shellshock 作家名:オオサカタロウ