ダンスフロア
四 春の入り口
誰もいない図書室で、私はよく歌を歌う。誰もいないのがいい。自分のことだけに専念し、自分のためだけに歌う歌なのだ。
幼い日の記憶にあったこの歌は、ある日、突然記憶から蘇った。ふと口にしてみると、その刹那、涙腺が緩み、長い間じっと箱の中にうずくまるようにしていた思いがあふれだした。私にとって、人生の答えのような歌でもあり、決してたどりつくことのできない秘密の場所の景色でもあり、限りなく深い水底へ引きずり込むような歌でもある。
カウンターの裏側に立ち、短調のその節を口にしてみる。
「逢いたいのはあなたよりも そばかす気にしてた日の私
少年は鳥になれずに大人になって 私は水鏡の中私を探す
誰にもただ一度だけの夏があるの
それは恋と気づかないで恋した夏」
季節はめぐり、この学校に転任してきて三度目の春は、もう目の前にある。空っぽの図書室。カウンターに群がり、容赦なく質問を浴びせ続けてくる生徒もいなければ、自分の知識や成し遂げた功績を自慢してくる生徒もいない。人生を模索して助言を求めてくる谷部君も、訴訟も辞さないだの、名誉毀損だの、なんだかんだ愚痴をこぼしながら谷部君を目で追っていた山田さんもいない。もう、いないのだ。
カウンター横の返却ボックスの中には、返却された一冊の本が入ったままになっている。
「最後まで読めなかった。」
一昨日の昼休み、谷部君はそう呟きながら図書室を訪れた。
「勉強忙しいんだからしょうがないよ。」
慰めのつもりで言ったつもりだったけれど、半分しか読めなかった、とうなだれる様子に、どんな言葉を続けていいかわからなかった。また借りればいいじゃない?も、貸し出し期間延長する?も、それはもう、世界の終りくらい遠い次元にあるような、果たせぬ約束の重さがあった。だから、話題を変えた。
「そういえば、山田さんがさっき来て、卒業アルバムにメッセージを書いてって頼まれたんだけど……。」
そう。掃除が終わるとすぐに山田さんが来て、私に卒業アルバムをぐいっと押し付けてこう言ったのだ。
「先生、書くのに時間かかるかと思うんで、この昼休み全部使って構わないんで、書けたら私のところまで持ってきてくださいね。」
「……。」
私の返答なんて気にせずに、春を待ちきれないうさぎのような軽い足取りで山田さんは廊下を駆けて行った。
その一部始終を谷部君に伝えると、
「山田らしい。」
そう言って、彼は生まれたての青い風のように笑った。笑って、でも、憂いから目を背けるようにうつむいた。谷部君のその心の機微に、「別れ」という理由が入っていることは明らかだった。誰もが卒業と別れを意識せずにはいられない季節だった。だから、
「だからさ、一緒に書かない?」
顔が持ち上がり、背筋が伸びて、
「俺も?」
と自分自身を指さす。まぁ、いいか、なんて言いながら、さっそくペンをもってくるりと回す。そして、彼がペンを置いて断念するまでわずか数秒のできごとだった。正直さは、彼の魅力の一つだと思う。
「じゃ、先に書くね。」
谷部君からペンをもらって、さらさらと書く。「別紙参照。」
「それはずるい。」
「だって、ここに書いたらみんなに読まれちゃうもん。だから、手紙でも書くよ。ゆっくり時間かけてね。」
納得したのかしていないのかわからない顔で、んー、と唸り、続けた。
「先生、手紙……というか、そういうの好きだよね。」
んー、今度は私が唸る番だった。
「手紙を書いてる時間って、その人のことしか考えない特別な時間でしょ?だから、一番真摯(しんし)に向き合う方法かなって思うんだ。あと、ずっと手元に残るし、字も、その人らしさがあるし。」
そっか、手紙か……。谷部君が虚空を見つめて呟く。そして、
「でも、これ、山田、怒りそう。」
「確かに。」
声に出して、二人で笑った。たぶん、この時私たちが想像した山田さんの姿は一緒だったよね。
結局、谷部君は何も書かなかった。ただ、私の願いも込めて「別紙参照。」の下に連名で署名した。
そうこうしているうちに、15分は過ぎ、山田さんと谷部君と聞く最後の昼休みのチャイムが鳴った。いつも通りの音階で、特別な演出があるわけでなく、程よく間延びした十六の音は、いつでも、誰の時間の上でも構わす公正に滑っていく。時として無情に思われるこの「時間」の潔さが、私たちを前に進ませるのだ。
「じゃ、また。」
谷部君はそう言うと、二度と彼が通ることのないカウンター裏の扉を開ける。彼は名残惜しさのかけらもなく、いつもどおり中学校の図書室を去って行くのだろうか。冷たい廊下の空気と本の匂いが混じる。思いがけなく、扉の向こうで谷部君が振り返る。とってつけたように、
「あ。」
と言うと、続けて、
「先生。」
山田さんと同じ、問いかけのような「先生」。できるだけ丁寧に、はい、と答える。
「それ、俺のも。」
山田さんの卒業アルバムを指さして、谷部君がぼそっと言った。
「別紙参照?」
冗談めかして私が聞くと、彼は軽く二回うなずいた後、右手でピースサインを作り、その二本の指で自分の両目を指してから、私の方へ向けた。私は、大好きな古い映画でリヴァー・フェニックスがやっていた「小指に誓って」のジェスチャーでそれに応えた。
予想通り、「別紙参照。」の文字を見た山田さんは怒った。「先生、あんまりですよ。」という第一声までもが、谷部君、予想通りだったよ。
ちょっとだけ感傷的な気持ちになり、返却ボックスの中の本を手に取ると、半分過ぎたあたりに栞紐が挟んであった。その紐より先のページの向こうに隠された、谷部君が知りえなかったストーリーに思いを馳せる。でも、「途切れた物語」の続きの中にこそ、無限の広がりがあることを大人になってから知った、とも思う。
冬休みに、谷部君と山田さんに読んでもらった「人生が一時間だとしたら」という詩を思い出す。人生が一時間だとしたら、楽しかった春の15分の思い出だけで生きられる、といい切れてしまうのも、それでもやっぱり涙が出てしまうのも、二度と戻れない「15分」という永遠の箱庭をそっと抱き、眺め続けているからなのだろう。決して後ろ向きな気持ちではなく、自分が選んで歩いてきたこの現実の道と、選ばなかった道の無限の可能性と、その愛すべき両者が、大人の私を支えているのだ。
昨日、約束通り山田さんに「別紙」を手渡すと、山田さんからも、私だけののために したためられた「別紙」が返ってきた。一行に二行分の文字を詰め込んだ長い文章の最後は、「先生のことも、図書室のことも忘れません。どの図書室にも先生がいそうな気がします。」と結ばれていた。
どこかの図書室や図書館に行くたびに、本を手に取るたびに、国語の授業を受けるたびに、山田さんはこの図書室での時間を思い出すのかもしれない、と思った。
山田さんの行動や言動の思い出のいちいちが、これからも私の過ぎ去ったはずの「15分」を刺激して呼び起こしていくのと同じに、彼女の貴重な青春の「15分」の内側に私が潜り込んで、山田さんが大人になっていくのを見守っていく……これが、「絆」なのかもしれない。
大切なものは、いつでも目に見えないからね。