ダンスフロア
三 初冬
今年は十一月に入っても温かい日が続いた。まるで同じ場所を旋回するかのように季節は留まっていたが、先週の文化祭を過ぎたころを境に、一気に季節は進んだ。先日、教室にはファンヒーターが配られ、今日からは期末テストが始まる。
九時十五分。そろそろ教室を廻り、質問を受け付ける時間だ。職員室の自席を立ち上がり、どうか、生徒たちが窮状に追い込まれていませんようにと祈りながら、象牙色の扉をゆっくりと開き、誰もいない廊下に出る。空気はぴったりと張り付いたように冷たく、鼻の先から始まった冬は、無遠慮に脊椎を通り抜け、簡単に足の指先まで染み渡った。ふと、職員室前のガラスケースに並べられた落し物に目が留まる。半袖シャツ、水筒、タオル…さかのぼることのできない季節の忘れ物たち。ひたすら未来を目指して、時に傍若無人に突き進む中学生から剥がれ落ちた抜け殻みたいな品々に思いを馳せながら、私は階段を上る。上りながら、二週間前のことを思い出していた。
「先生。」
いつになく迷いを抱えた顔で……いや、正確には、それを悟られないように精一杯気だるさを装った顔で……谷部君が声をかけてきた。いつもの昼休み、いつもの図書室で。
「分析してほしいんですけど。」
国語のテスト、点数が伸びない。ひと続きにそう言った。
「分析って……テストの間違い方を?それとも『君』という人間を?」
ちょっとだけ意地悪だったかな、と反省する間もなく、
「テストです、テストテストテスト。」
可愛いことに光の速さで返ってきた。そして、先生のテストできないんですよ、と私を糾弾してきた。
「点数に貪欲なのはいいことだとは思うけど、別にそこまで悪くないんだから、血眼になって勉強しなくても…。所詮、テストはテストなんだし、いつも言っているように、国語はテストのために学ぶんじゃないんだから。」
本気でそう思っているのだ。みんな、そんなものに縛られなくていい。
「最近模試とかでも、文章を楽しんでる余裕がない。時間、足りない。」
「そう……。」
国語ってなんだ、テストってなんだ。結局ぐるぐるしたまま、五時間目の予鈴が鳴る。時間、足りないね。
同じ日の午後、帰りの会を終え、いつものように施錠を確認し、カーテンを束ねていた。ふと振り返ると山田さんがいた。
――大人になっても傷つくことはある?
あの夏の終わりに、階段の踊り場でうまく答えられなかった山田さんの問いかけが、未だに頭の中で回り続けている。それなのに、未回答の質問の上にさらに難問を上乗せしてきた。
「先生、私って……どんなですか?」
あなたといい、谷部君といい、私のことを心理学者か占い師か何かと勘違いしている。的確な答えなんてできない。どこにでもいる普通の大人なのだ、私は。
「どんなって……どんな人間かってこと?」
そうです、とつぶやいた山田さんはいつになく元気がない。
「元気で明るくて、いつも楽しそうだけど……。」
瞬間、谷部君と「星の王子さま」と、本をなでる山田さんの指が脳裏をかすめて、
「いつも楽しそう、だったけど……。」
と言い直した。山田さんは、ため息と一緒に、最近何をしても楽しくないんです、と吐き出した。
「どんなことも楽しかったのに、なんでもできそうな気がしたのに、突然、自分が何にもできないくだらない人間に見えてきたんです。私って、何ですか?何をやっても、どこにいってもしっくりこない。」
「そう……。」
自分って何だ。居場所って何だ。谷部くんに引き続き、山田さんも結局ぐるぐるしたまま、下校時刻が来てさよならした。
そんなことを思い出していた。
踊り場まで来ると、中庭にある休止中の噴水と、刈り込まれた松と、薄水色の良く晴れた空が見えてくる。ガラス窓の向こうの世界は、手が届きそうで届かない。
ただ、と私は思う。ただ、正直、一番ぐるぐるしていたのは私だ。彼らの純粋な想いはいつも私を困惑させる。私がせっかく上った大人の階段は、空虚な現実と、それを受け入れようと塗りこめてきた偽りや、あきらめや、ごまかしでできているような気さえしてくる。彼らは呼ぶのだ。子どもと大人の間の聖域のような場所から。そしてかつての私も、私を呼んでいる。喜んだり怒ったり、憎んだり、愛したり愛されなかったりする中でがむしゃらにステップを踏んでいたこの踊り場(ダンスフロア)を忘れないで、と。スカートをひるがえして弧を描く、その一瞬で過ぎてしまう日々の中に、どれだけ大切な物語が詰め込まれていたのか知っているのでしょう、と。
三年四組の扉を開き、決まりきった言葉を発する。
「何か質問がある人は手を挙げてください。」
私は大人だ。ほら、冷静に仕事をこなし、平静を保てる。
でも、私は大人だ。もう、どこにも行けない。目の前の次の一段に迷わずに足を踏み出さなければいけない。学生服に身を包んだ未来の塊の間を歩く。記憶の中の山田さんが手を挙げる。当ててもいないのに立ち上がって聞いてくる。「先生、いつ大人になったの?大人になりたかった?」その姿は、次第に少女だった頃の私の姿に変わる。
そして、微笑んだ。
「どこへだって行けるのが大人。だから、大人になりたかったのよ。」
夏の初めに、卵からかえした青虫がさなぎになった。透明な安全な飼育ケースの中で、丸々と太った青虫は、ある日突然激しく動き出した。足掛かりのない透き通った壁を這い上がり、格子状の蓋までたどり着いては落ち、また、小枝を上って落ちをひたすら繰り返していた。それは、内側から湧き上がる抑えきれないエネルギーそのものだった。自分の居場所を、自分の生き方を、自分とは何かを探しているのだ。やがてサナギになり、羽ばたいていくために。安全な箱から出て身の危険をさらしてもなお、憧れる世界や未来に自分だけの答えを探しに旅立つために。
小春日和のやわらかな日差しが差し込む中、谷部君と山田さんは黙々と問題を解いていた。その背中や、肩や、ペンを走らせる指先にそっと祈る。そこに答えが見つからなくてもいい。そこにあなたたちが本当に探している答えはないのだから。だから、ひたむきな気持ちを、疑問と渇望そのものを信じてほしい。自分自身を、信じてほしい。
心理学者でも占い師でもない、ただの大人の私でもこれだけは言える。内側からこみ上げてくる「何か」は、すべて、「好きだ」って証拠なのだ。