ダンスフロア
二 夏の終わり
「人、集まりすぎ。」
常連の山田さんがカウンター越しにぼやく。夏休み明けのこの時期は、涼を求める生徒たちであふれ、図書室も割と混雑しがちだ。
「生徒議会で図書委員長も宣言していたとおり、『図書室は心のオアシス』なのよ。いいじゃない。みんな本を求めてる。最高。」
とカウンターの内側からそう返すと、心にもないことを、という視線が山田さんから注がれたので、
「人を疑うのは最も恥ずべき悪徳よ?」
とささやく。すると、
「メロスはもう、テスト範囲じゃないんで……。」
と、冷たく返してきた。山田さん、国語の勉強はテストのためではないのよ、そう言いかけたたところでカウンター裏の通用口が開き、
「ここ、設定温度何度?」
涼しい通り越して寒いよ、なんて言いながら谷部快(かい)君が入ってきた。
「あ、久しぶり。二十度はさすがに寒いか……。」
申し訳程度に設定温度を一度だけ上げ、目で「完了」の合図をすると、
「いや、変わらないって。」
と、彼は軽く笑って扉を閉める。しばらく会わないうちにまた身長が伸びた、と思う。そして、彼は、「今日は満月だよ」くらいの自然さで、十五歳になったことを教えてくれた。
夏休み前に、谷部君本人が「切りすぎた」と言っていた前髪は程よく伸び、エネルギーを持て余しているくせに憂鬱そうに見えるのは、子どもと大人の境目を漂う彼らの特権でもある。
ふと、視線を正面に戻すと、カウンター越しにひどく憤慨した表情の山田さんが控えていた。その視線は、私の後ろに移動した谷部君を見事にロックオンしている。谷部君は知ってか知らずか、床に積みあがった廃棄予定の本をのんきにパラパラめくっている。あ、と谷部くんが顔を上げる。目が合う。私と、だ。
「これ、返しに来たんだった。」
そう言って差し出したのは、見慣れた装丁の文庫本だった。私もその本を初めて読んだのは、中学三年生の夏だった。
「あ……ああ、読書感想文で読んだのね。」
もしもし、谷部君、カウンターの向こうのごれいじょうの表情はご覧になりましたか。私の個人的な見立てでは、あなたたちの関係は
破綻しているように見えてハラハラしていますが……。なるべく恣意的な動きだと悟られずに、早くこの場から去るように仕向けよう。そこで、返却はあっちでよろしく、と、指をさすと、谷部君は「ああ」と踵を返してカウンター奥の返却ボックスへと歩みを進める。
「なによ、『星の王子さま』なんてメルヘンみたいな本読んで。」
こら、山田さん。谷部君に何の恨みがあるか知らないけれど、『星の王子さま』は侮辱してはいけませんよ。私のバイブルなのよ。……でも、まぁ、一応聞いてみるか。
「谷部君と何かあったの。」
「別に。」
「何かあった」時に決まって言う、思春期代表の普遍的な返答が返ってきた。ならば、と、こちらも大人のありきたりな返答で返す。
「いろいろあるよね。」
すると、ちらりと私の表情をうかがい、山田さんはこう呟いた。
「訴訟も辞さない案件ですよ。あいつ……わたしの好きなアイドルばらしたんです。快(かい)にしか……あいつにしか言ってなかったのに。ひどくないですか。二人の秘密だったのに。」
大袈裟な、と思いながらも、「二人の」のところが妙に強調されて聞こえてきたのは、私の勘違いではなかったと思う。「二人の」か。
そんな山田さんをよそに、返却手続きを済ませた谷部君がこちらへ歩み寄ってくる。山田さんはそれを察し、「快が何を聞いてきても黙るか、交わすかしてよ」と早口で念を押すと、彼女は谷部君を避けるように図書室の奥へと移動した。そして、「手伝うよ。」と、いつのタイミングで用意したのかわからない笑顔と陽気な声で図書委員に声をかけ、返却された本を本棚へと戻す作業を始めた。やれやれ。
「先生。」
はい、何でしょう谷部君。お願いだから山田さんが怒っている理由だけは聞かないでね。私、嘘はつけるけれど苦手なの。なんとしてでも隠蔽しなくてはならないと身構えていると、私や、山田さんの精神的な消耗など一切気づかない少年のまっすぐさで、彼は、
「あの本、よかった。」
と切り出した。
山田さんの話ではなかった。
「そう、よかった。」
と返しながら、「よくなかった」の気持ちが少しずつ胸を満たしていって苦しい。山田さんの姿が文庫コーナーに消えていくのが見える。谷部君は谷部君の世界を生きて、谷部君の世界の話を続ける。
「大切なことは目に見えないって、そんなのごまかしだと思っていたけど、案外そうなのかもしれないって思った。特別な人……ああ、いや、ものがひとつあると、それに関わる全部が結びつくっていうか、すごく世界が変わるっていうか……」
五時間目の予鈴が鳴り響く。この本の、人生の、「目に見えないもの」
の核心に迫っているからこそ、目に見える現実は渋い。
「あ、じゃ、行きます。」
遅れないようにね、と決まりきった言葉で彼を見送ると、私はいそいそと閉館に向けて準備を始めた。整頓せずに放置された椅子を見つけ、色々な意味のため息をつきながら歩いていくと、文庫コーナーにはまだ山田さんがいて、最後の一冊を返却する場所を探しているのだろうか、うつむきながら手の中の本を見つめていた。
大切そうに両手で包まれたその本は、あの、見慣れた装丁の表紙だった。山田さんは、ついさっき「メルヘンみたいな本」と揶揄したばかりのその本の、表紙に書かれた「王子さま」を右手の人差し指と中指でそっとなでた。
ああ、人を好きになるのって、こういうことだった。
特別なものがひとつあると、よくわからない重力に支配されて、世界は一変する。ブラインドの隙間から差し込む光が、悩める十四歳をかすめながら、次の季節の到来がすぐそこにあると告げている。
「さ、閉めるよ。」
何も見なかった大人のふりで声をかけると、はーい、と、山田さんも何事もなかったかのように返事をした。失礼しまーす、と、小走りで図書室のドアを通り抜け、山田さんはそのまま階段を下りていく。
二人の物語が、どうか重なりますように。そう祈りながら階段に差し掛かると、踊り場で山田さんが上を見上げて待っていた。
「先生」
秋風に揺れる山田さんのスカート。
「大人になってもやっぱり傷つくことはある?」
希望と絶望を同時にはらんだ山田さんの表情に、うん、も、ううん、も言えなかった。ごめんね、山田さん。嘘はつけるけれど、苦手なんだ。