山と生き物
ところでハリガネムシを初めて見たのは鈴鹿のどこかの山だったと記憶している。職場の山の会の山行だった。山頂近くの低木がまばらに生える斜面を横切っている時だったと思う。その斜面の小さな水溜まりに三本の針金のようなものが水面から突き出して動いているのを認めた。それぞれ水中の部分を考慮すると20センチはあろうかという長さだ。前後にいた他のメンバーとそれら様態の気持ち悪さや正体について話した直後、好奇心に駆られて1本の針金に手を伸ばして摘まんでみた。人差し指と親指でつまんだ瞬間、後方の若い女性メンバーが「ダメっ」と僕の手をその針金から払いのけたのだ。危険だと感じたとっさの行動だ。その後も彼女はそれらに触れることを強く制止した。その勢いに僕の好奇心は収めるしかなくなったのだが、反面、なんとはなしに嬉しさも感じるのだった。僕のことを親身に心配して瞬時に払いのけてくれた行為に、僕に対する好意が潜んでいたと感じたからである。気立てのやさしい美しい子だったのでなおさらである。まあ、男はこういううぬぼれ的な都合の良い解釈をするものなんだろう。そんなハリガネムシとの初めての出会いがあった後、ハリガネムシを見つけるとその時のことを思い出す。ほんの少し触れたまさに針金のような硬さのハリガネムシの感触とその時払いのけられた彼女の手の感触とともに。
だからだろうか、ハリガネムシを見るとあのおぞましい容態とはかけ離れたほんのり甘い感情を覚えるのは。
ツマグロヒョウモンの団体演舞
僕は学生時代、少林寺拳法を習っていた。高校の部活で2年、そして大学時代には3年余り町道場に通った。京都の由緒ある道場で習っていた時に団体演武で関西大会において3位入賞をした。僕はチームのリーダー任されていた。けっこう打ち込んでいたので入賞結果は嬉しかった。入賞チームは全国大会に出ることができる。僕たちの道場のチームもあの日本武道館での全国大会に出場した。結果は入賞には至らなかったものの貴重な経験になった。何しろ武道館で演武を披露したのだから。ビートルズもコンサートしたあの武道館で。(そっちかい!)
団体演武は一挙手一投足、メンバー全員の動作を合わせなければならない。一人一人の基本の突き蹴りや技が正確でなければならないし美しくもあらねばならない。加えてシンクロすることが求められる。メンバー10人の呼吸やタイミングを合わせる練習に苦心したと記憶している。入賞はできなかったものの僕たちみんなはよく頑張った。 僕が経験した団体演武、新体操団体、集団行動、吹奏楽のマーチングなどの統率され同期した行動は見ていてまことに心地よいものだ。それは理屈ではなく生理的、感覚的なものだから尚更なのであろう。
しかし、より多数の団体での行動のなかには違和感というか嫌悪さえ感じることもある。それは隣国の軍隊の行進やマスゲームと称するものだったりする。多人数での統一(統率)的な行動は威圧感が強く恐怖を感じる。日本でもプロサッカーチームのサポーターたちが同色のユニホームを着て右手を挙げて縦ノリする同期した応援の様を目の当たりにすると不気味で怖い。実際にスタジアムで見た時はナチスを連想してしまった。多人数の団体の統一的な行動の美しさには恐れの要素も抱き合わせてあるもので、それは嫌悪感をさえ芽生えさせる。これも生理的、感覚的な側面が大きいのだろう。
さて、9月の半ばを過ぎたころに出会った生理的、感覚的心地よさを感じたことである。フジバカマが満開の時期を迎えていた。花々にはツマグロヒョウモンが8頭もとまっており蜜を吸っているようだった。蜜の吸引に夢中のようであるが、彼女たちの羽は開閉の動きをせわしなく繰り返している。しばらくすると、8頭それぞれまちまちであったその動きが徐々にそろってきて、とうとう同期した。まるでバレイか体操の集団演舞である。僕はフジバカマの舞台で踊る蝶たちの演技に思わず拍手を送りたくなった。こんな可愛い団体演舞なら大歓迎である。
クワガタムシ
6月下旬から7月の上旬にかけて北海道を旅した。舞鶴から車をフェリーに乗せ旭川から富良野、支笏湖、ニセコと回り、最終日は積丹半島を周った。積丹半島の突端にある神威岬では、その両側が切れ落ちた岬の先端まで歩き、海上に取り残されたかのような岩礁や積丹ブルーと呼ばれる海の色を楽しんだ。岬を周遊し、岬の付け根にある展望台に戻った時のことである。眼前4~5メートル上方に虫が飛んでいるのが目に入った。虫が僕の頭の上に近づいてきたとき、青空を背景にしたそのシルエットに2本の角があるのを認めた。間違いない!クワガタムシだ。クワガタムシはその後右に旋回しながら笹原の中に消えた。
クワガタムシが飛んでいるのを見たのはこれで2度目だ。
クワガタムシはなじみの深い虫だ。子供のころ、夏になるとよく近くの林に採りに行った。早朝に楢や樫の木の蜜を吸っているところを捕まえたり、洞から木の枝でほじくり出して捕まえた。飼育箱は廃材と金網で作った。おが屑と木の枝を入れ缶の蓋を餌場にした。エサは脱脂綿に浸した砂糖水やスイカの食べ残し。子供なので世話がおろそかになることもある。餌を腐らせたり蠅が湧いたり。当然死なせてしまうこともある。世話のフォローは父親がよくしてくれていたようだ。父は蟻やゴキブリに至るまでどんな虫も殺すことのない人だった。忘れがちになる子供の世話に、放っておけなかったのだろう。こうした父の世話もありクワガタムシの中には冬を越すものもいた。コクワガタは秋にはだいたい死んでしまったが、ヒラタクワガタは何匹か越冬した。クワガタムシは夜行性だ。昼間は木の枝の裏側やおが屑の中にいることが多く、夜になると動き回っていたようだ。しかし、狭い箱の中は飛べるような環境になく、飛ぶ姿は一度も目にしたことがなかった。
はじめてクワガタムシの飛んでいるのを見たのは家族で白山を登った帰り道の車の中からであった。登山口の別当出合いからキャンプ場のある市之瀬に向かっていると、目の前の上空を横切るように飛んで行った。この時も空をバックにしたシルエットでそれだと判別できた。その晩は市之瀬のキャンプ場でテント泊。夕食を食べた後、3人の子供を連れて日の暮れた駐車場の外灯を目指して出かけた。期待通り明かりの下にはクワガタムシがたくさん落ちていた。多くは動きの活発なアカアシクワガタだったが数匹の大きなノコギリクワガタも混ざっていた。子供たちとかき集めるようにして採った。子供たちは興奮していた。いや、僕も興奮していた。たくさんのクワガタムシを紙箱などに詰めてテントに戻った。長男は夏休みの自由研究にすると言うので家に持ち帰って飼育することにした。活発に動き回り逃走しようとするクワガタたちを箱に封をして出ないようにし、子供たちには就寝を促した。しかし、大量の成果に高ぶった神経はすんなり眠らせてくれはしない。僕がトイレに行って帰ってくると、テントの中から子供たち3人の勝利の凱歌のような合唱が聞こえてきた。箱の中のクワガタたちはその日以降飛ぶことはできず、生地から遥かの地で死を迎えることとなった。
ハンミョウ