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山と生き物

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 森のスティーブ・ガッドはしばらくの間、僕の存在などに気づきもせず演奏を続けた。一羽のメジロがリョウブを這い上がり、近づくまで。その間、コゲラの嘴に虫を咥えた様子はなかった。確信のもとの行為ではなかったということか? すると、やはり演奏だったのかもしれない。あまりに響きがいい木(ドラム)だったので。


















鳥のことば



 鳥の鳴き声は実に様々だ。鳥種によって全く違うのも改めて考えると面白い。ホーホケキョ、トッキョキョカキョク、カッコウ、ツツピー、ギョギョシギョギョシギョジギョジ、ヒンカラカラカー、他にも文字で表すには難しいものがたくさんある。個性的なものの中には品が良いとは言えないものやうるさいとまで感じるようなものまである。カケスはあんなに綺麗な鳥なのに鳴き声を聞くとげんなりしてしまう。ホトトギスはまどろみの早朝に時としてうるさく感じる。小さくて可愛いコゲラは似合わぬ濁音で「ギイッ」とネジを巻く。(村上春樹のねじまき鳥とはコゲラのことだと勝手に解釈している) 
僕がとても綺麗な鳴き声だと感じているものにはオオルリやミソサザイなど幾種かの鳥のものがある。中でも格別なのはイカルのものである。極上の澄んだ音でコーキーコーキーと聞こえてくるとその心地よさに気分が軽やかになる。色彩的に決して派手でないものの綺麗な鳥ではある。しかし、あの風貌と鳴き声には少しギャップを感じてしまう。容姿風貌と鳴き声のギャップなどというものは聞いて感じる人間のまことに勝手な感性であろう。声の持ち主にしてみれば知ったことではない。切実な行為であり発声なのだろうから。
 

ところで、鳥のさえずりは同じ鳥でも時々によって違うものだ。地鳴き、パートナーを求める囀り、仲間に危険を知らせる警戒音声など。あるテレビ番組で紹介されたシジュウカラには「蛇」という特定のものを知らせる鳴き方があるという研究結果が報告されていた。それはもう言語だと言っても良いのかも知れない。冬になるとシジュウカラ、ヤマガラ、メジロなどの混群をよく見かけるが、何やらせわしなく鳴き交わしながら移動している。食料のありかや進路などを声かけあっているようだ。種を超えて通ずる鳥の言語があるのかもしれない。


 以前、近くの林の縁でカラスの会話を聞いたことがある。林の木越しにダミ声で交互に話していた。それは人間のおじさんそのものであった。語調からなんとなく話の類は想像できるようだった。言語は人間の専売特許ではないかもしれない。
カラスは憎らしくなるほど利口だ。いや、カラスだけではない鳥というのは総じて高い知能を有しているのかもしれない。クルミの実を道路において車に引かせて割るカラスや木の枝を使って木の穴から虫をほじくり出す鳥がいることが証拠の一例である。そうした能力に言語とも言えるコミュニケーション手段を持つのであるから感心せずにはいられない。

 子供の頃、もし私たち哺乳類ではなく恐竜がこの世界の覇者として進化していたならどんな身体になっていたか、という妄想のもとで描かれたイラストを見たことがある。爬虫類的な顔をした恐竜人間だった。それらがどんな言語を喋るのかまでの妄想はしなかった。
鳥は今では恐竜の一部のものが生き残って進化したものであるというのは定説になっている。鳥はかつて恐竜であった。あの時見たイラストとはまるっきりに違う姿形。彼らがこの先恐竜人間になるとは流石に思えない。だが、ふとあるイメージが浮かんで思い出し笑いをした。頭が鶏の人間の像だ。それは、かつて見た漫才コンビのネタに出てくる「鳥人」であった。鳥人は人間の言葉をしゃべっていた。






イワナ



 初めて野生のイワナを見たのは上高地。河童橋から徳沢に向かう梓川で20センチ以上もあろうかというものがたくさん泳いでいるのを林道から見下ろした流れの中に見たことがある。三十年以上前のことだ。初めてイワナを食べたのも上高地だった。富山の折立より黒部五郎岳、西鎌尾根を縦走し槍ヶ岳から下って横尾山荘に泊まった折、夕食に塩焼きが出た。
 磯魚中心に育った僕は鮎以外どちらかといえば川魚は苦手な方であったのだが、それはクセもなく上品な淡白さを感じる美味なものだった。
次にイワナを食べたのは長野県の戸隠でのキャンプでのこと。バーベキューのついでに炭火で塩焼きが出来れば良いなと思いキャンプ場の管理人さんに近くでイワナを売ってくれるところはないかと尋ねた。するとおじさんは小さいものでよければ分けてあげられるよ、と思ってもいなかった返答。冷凍の本当に小さなものだったけど自然解凍して焼くとちゃんとイワナだった。ちなみにこの夏は極端な冷夏で7月下旬のキャンプ場は4月下旬並みの気温だった。米が育たずタイ米の緊急輸入につながった年でもあった。

 イワナは塩焼きが一番と言われる。きちんと焼かれた塩焼きは頭も骨も食べられる。山中でのイワナ釣りに興じたかの辻まこと曰く、イワナは頭が美味いのだと。確かにイワナの頭は美味い。しかし、頭まで美味しく食べるためには1時間半ほどかけてじっくりと炙り焼きをしないとダメなようだ。塩焼きだと言っても手間と時間がたっぷりとかかる。

 もう十年も前のことになるだろうか。冬の西穂独標に登った後に泊まった麓の宿の夕食に塩焼きが出た。丁寧に焼かれたイワナで頭から尾まで全て美味しくいただいた。すると食べ終えた僕の様子を見ていたのだろう、カウンター内の支配人のおじさんが僕の何も残っていない皿を引き上げたかと思うと横並びに座っていた他の宿泊客に皿を見せて回り「みなさん、イワナはこのように食べるんですよ!」と触れてまわるではないか。まさかのおじさんの行動に、恥ずかしいやら、でもちょっぴり誇らしさも感じるやらと複雑な落ち着きなさを感じたことが思い出される。やはりイワナは頭が美味いのだ。
しかし、それ以降、久しく頭まで食せるものに出会っていない。いつかまた、と考えているとある囲炉裏のイワナを思い出した。かつて食べそびれた上高地の明神にある嘉門次小屋の塩焼きだ。近いうちに行くつもりにしている涸沢の帰りにでも是非立ち寄ってあの頭をかじって一杯やってみようと考えると胸が踊る。



アサギマダラ

 

 夏の白山、南竜山荘の玄関前でのこと。近くにいた父子の父親の方が目の前の草に飛来した蝶を見て誰に聞くともなしに「何て言う蝶だろ?」と言った。そばにいた僕はすかさず「アサギマダラ」と答えていた。するとその父親は「ああ、そういえば浅黄色っていうのがあるな・・・」と僕の方も向かずにつぶやいて離れていった。それだけの何でもない場面のことではあるが、その後にアサギマダラを見るたびに思い出すのである。

 アサギマダラは込み入った黒の縁取りの中に淡い浅黄色が配色された穏やかなステンドグラスのような蝶で僕の好きな蝶でもある。鮮やかで目を見張る光沢の緑アゲハやルリアゲハのように主張があるわけではないが、全体的にシックながらやさしく目を惹きつける魅力がある蝶である。
 
作品名:山と生き物 作家名:ひろし63