短編集108(過去作品)
一人残された奥さんは放心状態だったようで、これは葬儀に参加した他の人に聞いた話であったが、奥さんも後を追うのではないかというほどだったようだ。
だが、それは取り越し苦労のようで、奥さんにも不倫相手がいるという噂だった。夫の死後、半年して、ちゃっかり再婚しているのだから、女というのは恐ろしいものだった。
――彼女もそんな恐ろしい女の一人なのかな――
とも考えたが、自分と一緒にいる時の彼女はあくまで従順で、どこか割り切っているように見えるが、感情はしっかり表に出ていた。
付き合い始めて、不倫相手の死というアクシデントもあったが、却ってそれが二人の絆を厚くした。特に彼女の方は、どこか石橋に秘密めいたところを持っていたが、次第にすべてを明らかにしたいという思いが強く感じられるようになった。
「私のすべてを見てほしい」
これが本音だったに違いない。
だが、石橋の方はどうだったのだろう。
――自分が好きになったのはこんな女だったのか――
神秘的なところが魅力の一番だったことに気付いたのはその時だった。自分に対してすべてを明らかにしようと全幅の信頼を置いてくれたのは嬉しいことだし、自分の中にある征服欲を満たしてくれたのは男冥利に尽きるだろう。
だが、実際にはどこか引いてしまうところを感じていた。
――一体彼女のどこが嫌になったのだろう――
嫌になったとまで感じるほどになった。
――嫌いになったというはずはない――
と心の中で訴えながらも、それが誰に対しての訴えなのか、分からなくなってくる。
――結婚という言葉をやたらと口にしていたな――
それがきっかけだったのかも知れない。
神秘的なイメージを持っている時に彼女のような女性と結婚ということを考えたいと思っていたのだが、全幅の信頼を受けている時に結婚を考えるのが、怖くなってきた。
それは、結婚ということ自体への恐怖心ではなく、彼女の中に見え隠れしている死んだ不倫相手が、死んでしまったことによって彼女の中から永遠に消えないであろうことへの恐怖であった。
これが神秘的なイメージであれば分からなかったが、逆にそのまま結婚していれば後で気付くことになって、取り返しのつかないことになっていたことを想像すると、ゾッとする。結婚を考える前にすべてが分かったことは不幸中の幸いではないだろうか。そう考えると、これも運命。相手の男性が死んでしまったことが運命なら、彼女と結婚を考えられなくなってしまったことも運命。結婚を前提としなければ、彼女とは別れるしかない。もし、自分から別れを言い出さなかったとしても、結局は彼女の方から離れていってしまうであろうことは目に見えていた。
「別れよう」
ベッドの中で天井を見ながらのセリフだった。
テレビなどではよく見かけるシーンで、他人事のように、
――シチュエーションとしては恰好いいな――
と無責任に感じていたが、実際にその立場になれば、これほど情けないことはない。完全に後ろ向きのことを話すのに、相手を愛した後の虚脱感の中でするということがこれほど情けないものとは思いもしなかった。他の場所でもいいくせに、どうしてその時に話したのかというと、
――一番自分の中で覚悟のできる瞬間――
と言えるからだ。
もっと言えば、一番愛情を感じている空間で、身体の中にある気持ちのすべてを凝縮して相手に放出した後の憔悴した時間。それは一番頭の中が空っぽになる時間でもある。
それは相手も同じではないか。至高の瞬間を越えると気だるさとともに憔悴感が襲ってくる。彼女がどう感じただろう。
「ええ、あなたがそれを言い出すような気がしていたわ」
そのわりには、かなり沈黙の時間を要した。
重苦しい空気の中なので、時間が長く掛かったような気がしたのだろうか。それもあるだろう。だが、それだけではなく、彼女自身が疲れていたに違いない。
それは石橋という男性に対してであることも間違いではないだろうが、恋愛ということに疲れていたのであろう。
「いつも同じことを繰り返しているんだわ」
という声にならないセリフが彼女の中から聞こえてきそうである。
その日、それからどうやって帰ったのか分からないが、その時の会話が別れの引き金になっていた。だが、その日を境に身体を求め合わなくなったわけではない。それからも何度か彼女を抱いた記憶がある。だが、感情は明らかに違っていた。好きな人を抱いているという感覚ではなかった。それでも抱いたのは、忘れかけていた彼女の神秘的な部分を、自分の腕の中にいる時に感じることができたからである。
今でもこの気持ちは変わっていない。
――きっとこれからも彼女以上に好きになる女性は現れないんだろうな――
ふとした時に、確信として感じることだった……。
それからしばらくして彼女とは別れたのだが、別れてから今までに彼女とは会っていない。だが、チラッと見かけたような気がしたのが三年前の雨の日だったのだ。
ロータリーで男を待つ女性、それが彼女だった。
彼女には独特の匂いがあった。柑橘系の匂いであり、それまで好きではなかった柑橘系の匂いを彼女だと思うことで、目を瞑ると浮かんでくる姿が、瞼の裏にはくっきりと残った。
ある日、利美に感じた匂いに、柑橘系の香りがあったのを思い出した。
その時、柑橘系の香りを感じ、彼女を思い出さなかったのはなぜだろう? 名前さえハッキリと覚えていないこともある。顔と名前が一致しない。
彼女の中で死んだ不倫相手が永遠に生き続けている。若い男が迎えに来たのを見ていると、まるで彼が生き返ったのではないかと思うほど、彼女の表情が生き生きしている。彼が歩むはずだった人生を自分だけが歩んでいるということへのわだかまりがなくなっているようだ。
利美という女性、彼女が時折見せる寂しそうな表情、彼女もかつて大切な人を亡くしたらしい。利美の寂しそうな表情は、石橋を通して、その人を見ているからなのかも知れない。
雨が降り注ぐロータリー、待ち続ける人を見ていると、自分にとって、永遠である人を待ち続けているように思えるのは、石橋が利美という女性を、利美が石橋という男性を、虚空の存在として見つめているからかも知れない……。
( 完 )
作品名:短編集108(過去作品) 作家名:森本晃次