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やさしいあめ 9

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「俺が触れたものは全部壊れるんだ」

 みいくんは、幼い頃にすり込まれた、その話を聞かせてくれた。

「おもちゃは壊れる、クレヨンは折れる、絵本はぼろぼろに破ける。俺が触れるものは壊れる。大切なものは触れた途端に壊れてしまう。だから、弟には物心ついた頃にはもう触れるのをやめてた。両親も弟が大事だからって、もしかしたら俺が弟に近づけないようにしていたかもしれない。弟にはなんでも与えられた。どうしてこんなにも扱いが違うのかと、幼い頃は不思議だった。不思議に思いはしたけれど、口には出さなかった。その内に分かった。弟は何をやらせても完璧だった。それなら仕方ない。そう思うだろ?」

「それはどこにでもよくあることだよ。わたしだって、いろいろあったもん」

「なにが? たった二十年にも満たない時間で」

「いろいろ、あったもん」

 本当に、いろいろあったのだ。姉を見ては自分にないものを見せつけられて、見ないようにしても聞こえてきて。姉のようになれたらといろいろ頑張っては見たけれど、姉ほどにはできなかった。家にいても話題は姉のことばかり。幼い頃からずっとずっとそうだった。何をしても無駄だから、良い子でいるのもいやだった。でも、悪い子になっても虚しいだけだった。何をするべきか分からなかった。

 きっと、本当に辛い人は、そんなことくらいって言うのだろう。自分でも分かっている。

 例えば、大災害に遭ったら、大規模テロに巻き込まれたら、ニュースを聞くだけで息が止まるような重大犯罪の被害者だったら。生活がままならないほどに苦しむのだろう。けれど、苦しむことも許されるのではないか。それだけの目に遭ったのだから。立ち止まっていても、前に進むことが難しくても、それだけのことがあったのだと。

 けれど、わたしは違う。わたしは、そこらへんに転がっている石を見つけて、それに合わせて自ら進んで転んでいるようなものだ。そして、擦り傷を見て満足しているのだ。

「まあ、いいさ。でも、大切なものは壊れるんだよ。リサちゃんが今こんなになってるのも、俺のせいだよ。俺が触れたからだよ」

「生きるためだよ」

「俺がいなきゃ、もっと良い生き方ができるだろ」

「どうしてそんなこと言うの?」

「だってそうだろ。リサちゃんも分かってるだろ。俺なんかがリサちゃんの人生に触れちゃいけなかったんだ。リサちゃんが本当に壊れるところは見たくない。本当に大切になってしまう前に、俺の前からいなくなってくれ」

 そのとき、地面が崩れ落ちるような錯覚に陥った。大袈裟かもしれないけれど、ついに大震災が起きてしまったのかとも思ったし、ようやく隕石がわたしの頭上に落下してきてくれたのかもしれないとも思った。

 けれど、どちらも違って、涙腺が崩壊した。

「触れただけで壊せるなら、触れてよ。わたしは壊されたいの。壊れてしまいたいの。わたしは中途半端に壊れてる。完璧に壊れられたら、世界は優しくなる。みいくんの世界みたいに、優しい世界になる。もうわたしを苦しめないでいてくれる」

「泣くなよ」

「泣きたいの」

 ここでみいくんと息を殺して暮らすのは自分に合っていると思った。けれど、死にたいとくり返すみいくんが死なない姿に、少しずつ気持ちが離れていくのも感じていた。噛む癖で、くちびるはよく切れた。みいくんは、それを見て泣くこともあった。でも、何かしようという気持ちにはならなかった。

これが最後だ。

「みいくん、一緒に死のう」

 みいくんは頷かなかった。それどころか、なんの反応もしなかった。死にたいと言うみいくんを何度止めてあげただろう。本気ではないと知りながら、本気で止めてあげた。みいくんは、わたしが死にたいと言っても止めてはくれない。本当に死にたい気分なのに。

「ねえ、はじめて会った日、変にトリップしたでしょ? みいくんは何を見たの?」

「……なんか、赤とか青とか緑だの紫だのの光が揺れて膨らんで破裂して」

 そうだったのか。あの日の、星降る海でキスをする夢。みいくんも同じものを見ていたなんて、勝手に決めつけて、みいくんに執着していた。あれは、本当に、単なる夢で、幻なんだ。今、みいくんに、幻滅だけをしている。みいくんは、わたしがいなくなることを望んでいる。

「みいくん、みいくんはどうしてみいくんなの?」

 別にロミオとジュリエットをしたいわけじゃない。ただ、みいくんは、ハンドルネームであろうと、なんのこだわりもない名前を使えるほど、そして、そう呼ばれて普通に返事ができるほど、こだわりを持たない人には思えなかったから。

「幼馴染を、みいちゃんって呼んでたんだよ。ガキの頃に。まあ、もう死んだけどな」

 聞かなきゃよかった。ううん。聞いてよかった。みいくんはこの世界から出ては来ない。そして、この世界で自然の死が訪れるまで過ごすつもりなのだ。一生。それに付き合い切れる気もしないし、付き合いたいとも思えない。半端な優しさを渡して、わたしはなんと残酷なことをしただろう。

「ばいばい」

「いいよ」

 それは、みいくんに対するわたしの口癖だった。なんでも、いいよ、と許容した。

亮太のようになれるかと思っていた。みいくんは、亮太にとってのわたし。そんな風に考えていた。亮太は、破滅を見るのが好きなのかもしれないとも少しだけ考えたけれど、なんと忍耐のいることなのかと思い知らされた。亮太はすごい。みいくんと暮らしていても、結局は亮太のことを思い出していた。そして、破滅というものも結局見られはしなかった。

 自分のアパートに戻ってみると、家賃は両親の仕送りで変わらずに払われていたから、ただ暗くてじめじめしただけで、部屋はなんにも変わっていなかった。

 ポストに、亮太のメモが残されていて、それを見て泣いた。

「帰ったら、連絡くれ」

 日付とそれだけのメモが、五枚も入っていた。

 手首を切ろうと思ったのは、カッターが誘っていたから。深く切るつもりなんかなかった。それでも、一筋線を描いたら止まらなくなった。泣きながら、何度も何度も切りつけた。気がついたら、パックリと開いたいくつもの傷口から血があふれて止まらなくなっていて、スカートは血だらけだった。ハッとして、傷口を塞ぐものを探して、手っ取り早くクローゼットの服で縛った。

 血で染まったスカートを着替えて、傷を押さえながら、近くの夜間救急に行った。

「何か辛いことがあったの?」

 傷を診てくれた女医さんは小さく息を吐いた。

「はじめてなんじゃない? でも、抱えているものがあるなら、紹介できる場所もあるから。今、多いの、こういう若い子。だから」

「大丈夫です」

 人の善意を踏みにじるのなら、大得意だった。

 わたしがしてきたことは、何にもならない。わたしはなに一つ成していない。それでも別に構わない。そういう星のもとに生まれてきたのだと思えばいい。その分、姉がきっと両親もよろこばせてくれるし、それでいいと思っていた。
作品名:やさしいあめ 9 作家名: