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やさしいあめ 9

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「リサちゃん、もしかして、まだ死にたいとか言ってんの?」

「ううん。あれはみいくん限定だった。化けの皮剥がされた。猫被るの、得意だったのに」

「猫なんか被ってた?」

「いつもはもっと上手に被れてたんだよ。みいくんのときは、上手くいかなかったの」

「へえ」

 みいくんは、首を掻いて、なにか言うべきことを見つけようとしている。けれど、はじめて会った日のような、ギラギラとして感じはなくて、子犬みたいで、ちょっとかわいいと思った。

「なにか食べる?」

「冷蔵庫はあるだけだよ」

「なにも入ってないんだ。よかった」

「なんで?」

「あるものでなにか作ろうにも、わたしにはそこまでの創造性がないの。一応、できるとは思うんだけど、作り方のレシピがあって、それを作る材料をそろえてってしないと作れないから」

「金もないよ」

「わたし、二万ちょい持ってる。昨日は苺の女だったの」

「は?」

「一万と五千円の女」

「ああ……。でも、俺は払ってない。そんな払えないし。あのときだって」

「あの頃はタダの女だったの。ランクアップ」

 笑顔で言うと、みいくんも笑った。

「なにか食べよう。わたし、お腹空いた」

「ご馳走になります」

「潔いね」

「それは違うだろ。ろくでなしのおっさんだよ」

 みいくん、おっさんおっさんって、いくつなの? 三十八。うそお、みえなーい。社交辞令、どうも。ううん、本当に見えない、三十前半だと思ってた。あんま変わんねえな。全然違うよ、三十代の前半と後半じゃ、心の持ちようが違うんだから。そっちの? ううん、一般論ではよく聞くことだから言ってみた。リサちゃん、なに食べたいの?

「みいくん」

「冗談」

「……と、一緒ならなんでもいいよ。だけど、コロッケがいい」

「コロッケ限定じゃん。まあ、コロッケなら商店街にめちゃくちゃ安くてそこそこ美味いのがあるよ」

「そこそこなの?」

「でも、めちゃくちゃ安い。商店街じゃそこそこと評判だけど、めちゃくちゃ安いを実現できる原価で、そこそこの評判を得るのも考えようによっちゃ大変なんじゃない?」

「難しい問題ですな。では、そこに決定としよう。わしの舌は肥えとらんのじゃ」

「舌遣いは?」

「朝であるぞ」

「関係ある?」

「ないであるが、コロッケにも関係ないである」

「でも、そのコロッケを買う金は」

「苺さんだよう」

「だろ?」

 なんだか楽しい朝だった。新婚さんにでもなったみたいに。

 コロッケを二つ購入し、食べ歩きながら帰る。

「なあ、リサちゃん」

「いいよ」

 わたしは、みいくんのすべてを受け入れることに躊躇いはなかった。みいくんがわたしの手を取る。ぎゅっと握り返して、わたしは現実から逃げる道を見つけた。

 みいくんのアパートに逃げて、新米の奥さんみたいなことをはじめてみた。真っ先にしたのは、布団を干すこと。日当たりはお世辞にも良くないけれど、気分の問題で、ほんの少しでもお日様の気配を、みいくんにあげようと思ったから。夜には、セックスのにおいに染まったけど、関係なかった。

「壁、薄いから、丸聞こえだよね」

 そんな風に笑い合った。

 みいくんは、たまに精神薬をスニッフしてハイになっているらしい。あの日もそう。今もたまにそうする。合法の薬だって言うけれど、錠剤をすりつぶして、鏡の上にきれいな直線を描かせて、一気に鼻で吸い込むその姿は、悪い薬をしているようにしか見えない。

「この薬、昔はよく出されてたんだけど、最近手に入りにくくなってさ。知り合いに譲ってもらってんの。俺は別の眠剤渡してさ。リサちゃんもやってみる?」

「やらない。ドラッグ、ダメ、ぜったい」

「薬自体は違法じゃないよ」

「でも、怪しい香りがしまする。青いし」

「色関係ある?」

「青い薬は毒っぽい。青酸カリも青ではじまるし」

「あれ、青いの?」

「それは知らない」

「ま、俺も少し控えるか。粘膜やられるしな」

「でも、みいくん。抗うつ剤とか、あと憂鬱な気分とかが、性欲とか、そういうのを減退させちゃうとか聞いたことあるけど、みいくんはそれはないの?」

「これでも減ったって言ったら、どうする?」

「めくるめく夜を待ち望む」

「ばーか」

 みいくんとの生活は楽しかった。たまにちょっと贅沢をするためにわたしは家を空けて、芳しい紙切れの苺をもらいに行くけれど、続けていた本当のバイトに紛れ込ませて、みいくんにはバイトだと言って出て行った。気づいてはいると思う。それでも、帰ればみいくんはなんでもなく迎えてくれた。みいくんに出されている保護費だけで二人で暮らせるわけもなく、でも、わたしはバイトのシフトをみいくんといたいがために減らして、だからその分を短時間で補える苺さんの恵みで補っていた。冬になる頃には、二人の生活が普通になっていて、自分のアパートに帰ることもほとんどなくなっていた。

 亮太からの連絡にも応えなかった。

「この世の中はクソだ。なんで生きてるんだろうな」

 みいくんはよく、死にたいとくり返していた。死ぬのだと言って物を壊すこともあった。生きていたくないんだと、暴れることもあった。

「お薬、飲んで。少し楽になるから」

「楽になんてなるもんか。世の中は変わんねえし、クソなんだよ」

「ねえ、じゃあ、せめて処方箋通りに飲んでみよう。みいくん、オーバードーズするときのためって、貯め込んでばっかだよ。全然指示通りに飲んでない」

「やぶ医者なんだよ。指示守ったって治りゃしない」

「治りたいとも思ってない」

「悪いかよ。きっとそういう病気なんだよ」

 わたしは、唇を噛む癖ができた。くちびるを噛んで、一呼吸して、悲しそうな笑顔を作る。

「みいくんは悪くないよ。大丈夫」

 悪いのは病気だ。病気がみいくんをそうさせるんだ。そう言い聞かせるしかなかった。少し経てば、みいくんは、ごめんな、といつもみたいに抱きしめてくれるのだから。

 でも、みいくんがうしろ向きになればなるほど、奇跡の瞬間が近づいているような気がして、どんどん目が離せなくなった。

 いつの間にか、みいくんといるために、バイトを休みがちになった。自分がいない間にみいくんになにかあったらどうしようと、心配でミスをしてしまいそうで。そもそもみいくんが心配でなるべく離れたくなくて。心配。ううん。奇跡を目撃しようとしていただけかもしれない。

 けれど、みいくん一人分の保護費で二人の生活は成り立たないから、わたしはバイトだと嘘をついて、男の人に会いに行った。出会い系で声をかけてくれる人には、すぐに別のフリーのアドレスを教えて、相手が課金しなくても済むようにして、お財布がさみしいのですと、料金の相談をした。

 けれど、いつからかみいくんはわたしに触れてくれなくなった。触れること自体に怯えるように。わたしがもらってくる苺が気に入らないのかもしれない。苺からするにおいが許せないのかもしれない。わたしは不安でたまらなかった。

「みいくん、怒ってるの」

「違う。俺が悪いんだ」

 みいくんは歯を食いしばっていた。
作品名:やさしいあめ 9 作家名: