やさしいあめ 9
『空を飛ぶ夢』
相変わらずPCは大学の授業のためにはろくに使われず、出会い系サイトでのメッセージのやり取りばかりだった。そして事ある毎によく知りもしない男の人とセックスをしていた。授業もろくに受けていないどころじゃなくて、「このままだと留年になりますよ」と指導部に通告された。大学の代わりに、バイトをしようと、文字入力のバイトに精を出し、生活には余裕が出た。 セックスにも金銭を要求するようにしてみた。一万円くらいなら、ぽんと払ってくれる。向こうにも、うしろろめたさがあるのだろう。それが、金は払ったんだからと慰められる。こっちは妊娠のリスクがゼロではないのだ。もらったっていいだろう。
そして、せっかく生活にゆとりが少しできたのだし、とピルを飲むことにした。生理が遅れて、もしかしたらと気をもんだことからそうしたのだけれど、それはうっかり口を滑らせないようにしている。中に出していいかなんて言い出す人が絶対にいるだろうから。
みいくんを懐かしんで、サイトで検索してみたけれど、みいくんは名前を変えてしまったのか、サイトを退会してしまったのか、見つからない。それが少しだけ寂しい。
「だからさ、みいくんみいくんって、空想かなんかだったんじゃねーの? そんな奴、いないんだよ」
亮太がやきもちを焼いてくれるのがうれしくて、たまに、忘れた頃に、みいくんの話を持ち出す。けど、亮太もいい加減、頭にきているみたいだ。
「たとえ本当にいたとしても、そいつ何もしてないんだろ? 無職なんだろ? 一緒に死ぬとか、ふざけんなって。理沙をなんだと思ってんだ。そんな訳の分かんない頭のおかしい奴、いい加減忘れろよ」
わざとらしくため息をつく。わたしは煙草と携帯灰皿を取り出した。
「いつから煙草なんか」
「わたしの勝手じゃん」
ベランダでふかすと、みいくんの香りがした。みいくんがあの日吸っていた煙草の銘柄がなんだったのか覚えてなくて、けっこう探した。ようやく見つけた頃には、みいくんと別れてから半年が経っていた。みいくんの香り。それと共に、あのトリップを求めているのだけれど、それが起きたことはない。やはりあの煙草になにかが混ざっていたのか、みいくんとこの煙草の両方がそろうと起きることなのか、分からないし、あり得ないとも思うけれど。ただ、肺まで煙を入れると、咳き込んでしまう。だから、少しふかして、懐かしむ程度。
「理沙、俺と結婚しない?」
「なあにそれ」
「戻って来いよ。生活は保障してやるから。そりゃ、そんなに贅沢はさせられないけど」
「お前の嫁が知らん男とホテルに消えるとこ見たぜ。ありゃ堅気の男じゃねえな。なんて言われたいの?」
「お前こそ、なんなんだよそれは」
「ありそうじゃない? わたしいやだなあ。亮太の奥さんがそんな噂をされるような人じゃ」
「他人事みたいに」
「だって、あんまりにもいきなりだったから」
「いきなりじゃない。ずっと考えてた。そうでもなくて、なんで休みに車でこっちに来るんだよ。言ったろ、好きなんだって。ただの女友達にそこまでしないって。気になったって、せいぜい電話までだ」
「亮太、わたしね」
「考えとけよ。とりあえず、いまは答えは保留でいいから。ただし、マジで考えて。真剣にさ」
けれど、その三日後には変わらずにホテル街へと出向く予定を入れていたし、予定通りにその人に会いに行って、虚しさとお金を手に入れていた。
その上に、ホテル街からの帰り道、偶然にも、本当に奇跡的偶然で、みいくんと再会してしまった。みいくんはハイになっていて、胸の奥で傷が疼く気配がした。みいくんの極彩色でも見ているかのような虚ろな瞳がわたしをとらえると。
「はは」
笑った。
今は秋で朝夕はずいぶんと寒くもなってきて、今日はこの秋の一番の冷え込みだと天気予報で言われていたのに、みいくんはまるで夏みたいな薄着だった。
「みいくん、何してるの?」
「見ろよ。リサちゃんがいる。これは夢だな。リサちゃんなら俺が殺したんだ。神様、いえーい」
「みいくん、おうちどこ? 帰ろう」
「おーい。リサちゃんも一緒な。最高じゃん」
「うん。だから、みいくん、おうちどこ?」
みいくんは歩いて帰れる場所だと言ったけれど、一時間くらい歩いたところでみいくんのテンションが急激に落ちてきた。
「どこ行くってんだよ」
「みいくんのおうち。一緒に帰るの」
「帰ってどうするんだよ。なに? いいことでもしてくれんの?」
「それでいいから、帰ろう」
「なんだよ、それでいいって。どうせ俺のことなんか」
「なんでもいいから、帰るの。みいくん、帰って、眠った方がいい」
みいくんの目の下には、くっきりと隈ができていて、頬はこけていて、耳にかかる吐息だけが異様に熱かった。
そこから、さらに一時間ほど歩いて、みいくんのアパートだという場所にたどり着いた。
みいくんはポケットからキーを取り出して開けると、わたしに先に入るように言った。靴を脱いで上がると、狭苦しい玄関でうしろから覆いかぶさられた。されるのかと思って、動きを待ったけれど、みいくんはピクリとも動かなくて、代わりに静かな寝息が聞こえてきた。
みいくんから靴を脱がして、ずるずると引っ張って、敷いたままにそこにある布団に寝かせた。布団はカビ臭くて、重たくて、冷たくて。みいくんのことを放ってもおけなくて。みいくんの冷えた体を自分の体温で温めた。みいくんは死んだように動かなかった。本当に死んじゃったんじゃないかって、何度か呼吸と鼓動を確かめた。
朝になると、みいくんはもぞもぞと動いて、わたしを抱き寄せた。みいくんが生きている。ほっとした。
「おはよう。みいくん」
「え?」
「ごめんね、寒かったから」
「あれ?」
「いいよ。待ってて。なにか飲むよね」
「え、夢? これ、夢だよね?」
水道水そのままでいいのか少しだけ不安になりながら、洗いかごのコップに水を注いで渡した。
「なんで? リサちゃんだよね? ちょっと待って。覚えてないわけじゃないんだ」
「なにも覚えてなくてもいいよ。なにもなかったから。なにか悪いことしてるなら、思い出してほしいんだけど」
「いや……とくに」
「じゃあ、いいよ」
みいくんはごくごくと水を飲みながら、こちらをうかがう。
「邪魔なら帰るから」
「邪魔じゃない。むしろ、いてほしいくらい」
「いいよ」
「いいよって、リサちゃん大学生だよね?」
「授業はオンラインで、しかも真面目に受けてないの。関係ない。わたし、みいくんのこと、探してたの」
「探してた? 俺を?」
「うん。みいくんは星を降らしてくれるから」
「なんだそれ。俺はただのろくでもない男だよ」
みいくんは、棚の上の処方箋をこっちに投げてきた。
「精神薬だよ。どこが悪いのかよく分かんないままに通院してて、無職で、生活保護で暮らしてる。それが俺の本当だよ」
「そっか」
「軽蔑するだろ」
「どうして?」
「こんないい年こいたおっさんが」
「関係ないよ。みいくん、ただのおじさんじゃないし。仲よしさん」
相変わらずPCは大学の授業のためにはろくに使われず、出会い系サイトでのメッセージのやり取りばかりだった。そして事ある毎によく知りもしない男の人とセックスをしていた。授業もろくに受けていないどころじゃなくて、「このままだと留年になりますよ」と指導部に通告された。大学の代わりに、バイトをしようと、文字入力のバイトに精を出し、生活には余裕が出た。 セックスにも金銭を要求するようにしてみた。一万円くらいなら、ぽんと払ってくれる。向こうにも、うしろろめたさがあるのだろう。それが、金は払ったんだからと慰められる。こっちは妊娠のリスクがゼロではないのだ。もらったっていいだろう。
そして、せっかく生活にゆとりが少しできたのだし、とピルを飲むことにした。生理が遅れて、もしかしたらと気をもんだことからそうしたのだけれど、それはうっかり口を滑らせないようにしている。中に出していいかなんて言い出す人が絶対にいるだろうから。
みいくんを懐かしんで、サイトで検索してみたけれど、みいくんは名前を変えてしまったのか、サイトを退会してしまったのか、見つからない。それが少しだけ寂しい。
「だからさ、みいくんみいくんって、空想かなんかだったんじゃねーの? そんな奴、いないんだよ」
亮太がやきもちを焼いてくれるのがうれしくて、たまに、忘れた頃に、みいくんの話を持ち出す。けど、亮太もいい加減、頭にきているみたいだ。
「たとえ本当にいたとしても、そいつ何もしてないんだろ? 無職なんだろ? 一緒に死ぬとか、ふざけんなって。理沙をなんだと思ってんだ。そんな訳の分かんない頭のおかしい奴、いい加減忘れろよ」
わざとらしくため息をつく。わたしは煙草と携帯灰皿を取り出した。
「いつから煙草なんか」
「わたしの勝手じゃん」
ベランダでふかすと、みいくんの香りがした。みいくんがあの日吸っていた煙草の銘柄がなんだったのか覚えてなくて、けっこう探した。ようやく見つけた頃には、みいくんと別れてから半年が経っていた。みいくんの香り。それと共に、あのトリップを求めているのだけれど、それが起きたことはない。やはりあの煙草になにかが混ざっていたのか、みいくんとこの煙草の両方がそろうと起きることなのか、分からないし、あり得ないとも思うけれど。ただ、肺まで煙を入れると、咳き込んでしまう。だから、少しふかして、懐かしむ程度。
「理沙、俺と結婚しない?」
「なあにそれ」
「戻って来いよ。生活は保障してやるから。そりゃ、そんなに贅沢はさせられないけど」
「お前の嫁が知らん男とホテルに消えるとこ見たぜ。ありゃ堅気の男じゃねえな。なんて言われたいの?」
「お前こそ、なんなんだよそれは」
「ありそうじゃない? わたしいやだなあ。亮太の奥さんがそんな噂をされるような人じゃ」
「他人事みたいに」
「だって、あんまりにもいきなりだったから」
「いきなりじゃない。ずっと考えてた。そうでもなくて、なんで休みに車でこっちに来るんだよ。言ったろ、好きなんだって。ただの女友達にそこまでしないって。気になったって、せいぜい電話までだ」
「亮太、わたしね」
「考えとけよ。とりあえず、いまは答えは保留でいいから。ただし、マジで考えて。真剣にさ」
けれど、その三日後には変わらずにホテル街へと出向く予定を入れていたし、予定通りにその人に会いに行って、虚しさとお金を手に入れていた。
その上に、ホテル街からの帰り道、偶然にも、本当に奇跡的偶然で、みいくんと再会してしまった。みいくんはハイになっていて、胸の奥で傷が疼く気配がした。みいくんの極彩色でも見ているかのような虚ろな瞳がわたしをとらえると。
「はは」
笑った。
今は秋で朝夕はずいぶんと寒くもなってきて、今日はこの秋の一番の冷え込みだと天気予報で言われていたのに、みいくんはまるで夏みたいな薄着だった。
「みいくん、何してるの?」
「見ろよ。リサちゃんがいる。これは夢だな。リサちゃんなら俺が殺したんだ。神様、いえーい」
「みいくん、おうちどこ? 帰ろう」
「おーい。リサちゃんも一緒な。最高じゃん」
「うん。だから、みいくん、おうちどこ?」
みいくんは歩いて帰れる場所だと言ったけれど、一時間くらい歩いたところでみいくんのテンションが急激に落ちてきた。
「どこ行くってんだよ」
「みいくんのおうち。一緒に帰るの」
「帰ってどうするんだよ。なに? いいことでもしてくれんの?」
「それでいいから、帰ろう」
「なんだよ、それでいいって。どうせ俺のことなんか」
「なんでもいいから、帰るの。みいくん、帰って、眠った方がいい」
みいくんの目の下には、くっきりと隈ができていて、頬はこけていて、耳にかかる吐息だけが異様に熱かった。
そこから、さらに一時間ほど歩いて、みいくんのアパートだという場所にたどり着いた。
みいくんはポケットからキーを取り出して開けると、わたしに先に入るように言った。靴を脱いで上がると、狭苦しい玄関でうしろから覆いかぶさられた。されるのかと思って、動きを待ったけれど、みいくんはピクリとも動かなくて、代わりに静かな寝息が聞こえてきた。
みいくんから靴を脱がして、ずるずると引っ張って、敷いたままにそこにある布団に寝かせた。布団はカビ臭くて、重たくて、冷たくて。みいくんのことを放ってもおけなくて。みいくんの冷えた体を自分の体温で温めた。みいくんは死んだように動かなかった。本当に死んじゃったんじゃないかって、何度か呼吸と鼓動を確かめた。
朝になると、みいくんはもぞもぞと動いて、わたしを抱き寄せた。みいくんが生きている。ほっとした。
「おはよう。みいくん」
「え?」
「ごめんね、寒かったから」
「あれ?」
「いいよ。待ってて。なにか飲むよね」
「え、夢? これ、夢だよね?」
水道水そのままでいいのか少しだけ不安になりながら、洗いかごのコップに水を注いで渡した。
「なんで? リサちゃんだよね? ちょっと待って。覚えてないわけじゃないんだ」
「なにも覚えてなくてもいいよ。なにもなかったから。なにか悪いことしてるなら、思い出してほしいんだけど」
「いや……とくに」
「じゃあ、いいよ」
みいくんはごくごくと水を飲みながら、こちらをうかがう。
「邪魔なら帰るから」
「邪魔じゃない。むしろ、いてほしいくらい」
「いいよ」
「いいよって、リサちゃん大学生だよね?」
「授業はオンラインで、しかも真面目に受けてないの。関係ない。わたし、みいくんのこと、探してたの」
「探してた? 俺を?」
「うん。みいくんは星を降らしてくれるから」
「なんだそれ。俺はただのろくでもない男だよ」
みいくんは、棚の上の処方箋をこっちに投げてきた。
「精神薬だよ。どこが悪いのかよく分かんないままに通院してて、無職で、生活保護で暮らしてる。それが俺の本当だよ」
「そっか」
「軽蔑するだろ」
「どうして?」
「こんないい年こいたおっさんが」
「関係ないよ。みいくん、ただのおじさんじゃないし。仲よしさん」
作品名:やさしいあめ 9 作家名: