満願
「あなたにも、折角この堂へ来ていただいたのですからそれくらいの報いはあってもいいはずです。……優しい男でした。家柄も良く人も優しい。似合いの夫婦だと言われて、面はゆかったのは昔のことです。死別致しました。籠の小鳥は優しく鳴くものの、逃がしてしまったらもう戻りません」
祈りに祈り積まれた功徳も顧みる者も無ければ無です、と仏の顔から手を離す。
「死んでしまえば魂は元の体を脱ぎ捨てて、どこへでも、どこまででも飛んで行ける。それでも元の住処を覚えていれば鳥も籠には戻りましょう。ですが、あの人は私のことなど覚えていなかった。この御仏の霊験を頼りまして見た夢では、私は懐かしい我が家の、それもまだ真新しかった頃の小さな庵に伏せております。そうするとあの人の足音が聞こえます。足音であの人だと判ります。このところひどく病みついていたのを忘れて、屏風の影からあの人が来るのを今か今かと待っておりますと、ひょっこり覗いてわあっと──」
それきりでございますという女の声を遮って、一度だけ小さく鳴いた秋の虫が、霜の冷たさに凍えて再び鳴くことはなかった。女が夢で男と会ったのは、この方丈の出来事だろうか。夢に出で給うた御仏は、と自分は薄皮の布団も敷かない、冷たい板の間の上で身じろぎもせずに言った。
「女童に姿を変えてあの人を呼んだのがその御仏です。そうしてあの人が帰った後に、じいっとこちらを眺めて、あれでも恋しいかとおっしゃるのです。あの者にとって私と過ごすことは地獄に等しかろうと御仏はおっしゃいました。どんなに私が思い慕っていたところで、あの人は私のことなど覚えてはいないようなのです。私と過ごした日々がいかに嬉しく、また楽しかったということさえ覚えてはいない様なのです。別の天地を見つけて、そこで楽しく暮らしているらしい。そこは極楽でしょうかと問いましたが、極楽は遠い」
いよいよ明るくなりつつある堂内の、ようやくともしたばかりの明かりを消し飛ばすほどの光の中で、私の身では行くことが出来ませんからと女が呟いた。
「けれども中陰の間であれば、つかの間のことではございますが近寄ることが出来ます。そうしてあの人を別の天地へ向かわせる前に、うまくすれば私の元に留めておくことも出来る。けれども人一人地獄に落とすのであるから、お前も地獄に落ちるのが相応だろうと御仏はおっしゃいました。あの人がいる所こそ私にとっての極楽なのに、おっしゃることの意味が判らない。あの男を率て行かなければ、相応の天地が与えられようともおっしゃいましたが、あの人のいらっしゃらない天地など地獄と何が変わりましょう。そう言うと御仏は、ではこの堂を出てはじめに会う人の詞によって判ぜよ──とおっしゃったのです」
今日が満願です、とようやく元の顔に戻って女が言った。
「私の願いは今日を境に潰えます。明ければ魂は戻ってこないのは必定にございます。私もこの堂に参ることももうない。このような立派な御仏も、もうあなたしか知らない。ですからどうかこの御仏は、あなたの徳になさるがよいでしょう」
釈迦牟尼はきっと私に地獄へ参れとおっしゃったのです、と小さな呟きが聞こえる。
いよいよ明るさを増す方丈の、小さな御仏の笑う厨子の内だけが作られた浄土であった。その余はけして極楽浄土ではない。欲にまみれた穢土であり、仏もおわさぬ田舎辺で、人こそ少ないのが救いであった。方丈の中には彦六と女しかいない。釈迦牟尼もその本体は浄土にあって、柔和な相貌を写した像はあくまでもその影である。女が語る言葉も、正太郎の寝言も、所詮この世での出来事であって、この世のどこからも釈気高くけして手に入りなどしないものを求め続ける姿が好きだ。尊は遠い。だから彦六は尼のような女が好きだ。手に入らないことこそが良いのだと正太郎が理解を示したが、本当に正太郎が理解をしているのかは定かではない。この女は本当にその男のことを恋うているのだろうか。問うとはなしに口からこぼれ出た言葉に女の動きがぱたりと止んで、そんな浮気なつもりはありません、と冷えた声が聞こえた。
「いずれにせよそれが冷めることはないのか、と聞いたつもりでしたが」
方丈の外はすっかり朝の気色だった。それも晩秋の、そろそろ霜が降りようかという頃合の冷え切った、枯れ木混じりの野原だった。七竈の赤く熟れきったのが枯れ草の先に付いているのを眺める。あの赤のように、目の前の女がその男を思う気持ちがにいつまでも残るのであれば、身は枯れ冬の最中にあっても幸福だろう。正太郎の様に生まれ故郷も材をも捨てて、惚れた女と何処までも逃げようとしていたのと同じだ。彦六は正太郎のことはけして嫌いではない。
そんな軽薄な恋など致しませんと女が言った。
「契は二世、世の後先も知らずとも、後の世でも巡り会って恋えば良い。吉備津の温羅の首代を埋め奉った上で炊く、阿曽女の卜の釜鳴りのごとくに天へ響くほどの恋です。どうして再び恋うことがないのでしょうか」
ほんのり笑った目尻に泣いた跡があるのを見て、ふとあの男も泣いていたなと思った。荒れ屋に閉じこめられるまでの間は、ひたすら袖とは来世も夫婦になるのだと墓の前で嘆いていた。けれども、国元に置いた妻も事情は同じではないのだろうかという考えが胸の内をよぎると冷たい風が吹いたような気がした。果たして正太郎や袖が言うように故郷の妻は醜く愚かなのだろうか。正太郎が囲った女の元に連夜通うのを咎められて、代わりに日夜女の元に通ったのはその妻である。正太郎はすっかりそのことを忘れているようだった。目の前の女の容貌は優れているとは言いがたかったが、気高い目の光が容色を全てを覆い尽くしていた。彦六自身は色恋沙汰とは縁遠い。良いと思える女がいたとしても、進んでその前に立てばその目の光に射貫かれてたちどころに死んでしまいそうな気がする。釈迦牟尼やまことの神でなければ、これに見つめられて無事でいられるようには思えなかった。
この女はやはり尼に似ている。
ならばそのように成されるのが宜しいでしょうと言うと、遠くで払暁の鐘の音が聞こえた。今や隠れる所のない太陽が枯れ野を赤く照らしながら昇っていた。煤にまみれた仏の顔も、内側から照り輝くように光り始めて、方丈の外はすっかり朝の気色だ。
満願の朝でございます、と女が灯明の火を吹き消した。
「いつまでもお引き留めしては、どんな罰を被るかわかりません。帰りの道は判りますか」
「いいえ、残念ながら」
ならば送りましょうと女が厨子の扉を閉める。一瞬にして光の反射が消えて、元の薄暗い堂内に戻った。
野に降りると堂の中よりは明るく、いよいよ朝になろうとしていた。萩も露も朝の光に融けて、あんなに面白かった道行も高く昇った日の下ではただうら枯れた一群と化してる。道は相変わらず判然としない。けれどもどこかで来た道だと判るのか、行くときよりも早く足が進む。早く早く早く早くと蹴り出した爪先の前で女の姿がときならぬ陽炎のように揺れて、見失わないように必死だ。女は振り向かなかった。こちらへと言うこともなかった。まるで何かから逃れるようだなと思いながら女の背中を追う。