小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

満願

INDEX|4ページ/4ページ|

前のページ
 

 野から道へ、道から辻へ、辻から見慣れた我が家とその隣の荒れ屋の屋根が近付いてくる。足早に隣の家の壁に近付いて声をかけると中から正太郎の声が聞こえた。
「彦六殿。朝だ。朝が来たのだ。重い物忌みもこれで終いだ」
「ご無事でしたか」
 ほっと胸をなで下ろしながら駆け寄る。無事だと正太郎の声が壁から聞こえた。
 ちらりと振り向くと女の姿がまだ道の上にある。
「夜が明けてから返事がないので、何かあったのではないかと気をもんでいた所だ。貴殿がいなければ、この一月余りの恐ろしい出来事を語る相手もいないのだから」
「ご心配には及びません。少しだけうとうとしていたつもりが、こんなにも日が昇ってしまって」
 その女が小さく頭を下げた。同じ満願の者同士、引き合わせてみても良いかもしれないと思ったが、美女ならまだしも正太郎があの女を気に入るか判らなかった。何より女と語らっていたことが原因で正太郎の元に行くのが遅れたことが後ろめたい。早く去ってくれと思いながら、壁の内の正太郎に向かってまごう事なき朝です──と答える。
「今となっては何も怖いものもありません。さあ、恐ろしい思いで過ごしたその家を出て、私の家においで下さい。宴の一つももうけましょうぞ」
 踏む度軋る床板の音さえ嬉しげに、正太郎の足音が荒れ屋の中を進んで玄関の方へ行くのが聞こえた。彦六も正太郎を迎え入れるつもりで自宅の戸を半ばまで開けて、道に目を転じるとまだ女の姿が道の上にあった。隣屋では正太郎が、拝みから拝領した符をべたべた貼った──余程怖かったのか目張りをするようにびっしり貼り付けたのが外からも見えた──戸を開けようとして、紙を引きちぎる音が響いていた。その音に合わせて女の姿がゆらゆら揺れる。足下に落ちた影もまた染み出すように墨の色と同じ闇の色を濃くして躍り上がる。
 悲鳴が聞こえた。
 ぐらぐらと視界が揺れて、糸を引いたような残像の向こうに夜の闇が透けて見える。沸き上がったそれが視界を覆い尽くして思わず倒れ伏した。何も見えない。闇の中である。
 とはいえ勝手知ったる庭先である。手近に転がっていた薪を割る斧を武器の代わりに掴んで転がり出るように道に出ると、出てはなりませんと叫んだが果たして役に立ったかは判らない。天頂には月が出ていた。満月から少し過ぎたとはいえ十分な光を下界に投げかけていて、見ると、荒れ屋の板の戸が外されて闇の匂いを放っていた。
 ──夜だ。
 その戸に手をかけ屋の内に呼びかけたが返事はない。家の外へ逃れ出たものかと月光が漏る軒から大路へと声を限りに呼び回ったが返事はなかった。影もない。女の姿も消えていた。こちらはもとより幻だったのかもしれない。
 家に戻って瓶から水を飲もうとすると、柄杓を掴んだ手がぬるりと滑る。腥い。ようやくともした灯で見ると、手は真っ赤に濡れていたが、傷らしい傷もなくて、この血はいつ手についたかと記憶を辿って外へ出る。今度は斧は持たなかった。斧にも傷はない。代わりに手燭を携えてゆく。果たして正太郎がいた家の、戸脇の壁が血で濡れていた。戸を掴んで中の様子を探るのに伸ばした掌がその壁をついたのだろう。
 改めて室内を眺め回したが、つい先ほどまでそこに人がいたはずであるのに空気は冷え切っていた。方々を探し回って屍も骨も見あたらず、ようやく、軒の破れ目から落ちかかるようにひっかかっている黒いものが正太郎の髻であるということに気が付いた。どうしてそんな所にそんなものがあるのか判らない。正太郎に髻を落として仏門に入る気配はなかった。日が上がるのを待って辺りの野辺まで探しに行ったものの髻の他は何も見つからなかった。
 野に出る。
 正太郎の遺骸を探すためだが、歩く内にいつしか女と歩いた野の道を僅かな記憶を頼りに歩き回っている気がする。
 正太郎の故郷へ身の回りの品と共に髻を送ったのは、冬のはじめ頃だったように思う。冬枯れの野にある色彩は少ない。後日正太郎の両親とその妻の両親から送られてきた礼状で、縁談の経緯と故郷に残された妻の話を知った。女の言葉とは異なって婚礼の釜卜は虫のすだく程しか鳴らず、はじめから不吉を予告された婚姻であったことも、それでも僅かばかりの幸福な時期があったこともそのとき知った。枯れ草の色をかき分けて、茂みを抜けた先に三昧堂が立ちつくしているのが目に入る。かつてその足下で咲いていた蘭草も葛も女郎花も皆枯れ果てて、七竈の赤い実だけが前と同じだ。
 女がそうしていたように、彦六も蘭草の茂みに立ち入って戸を開ける。霜が降りたように厚く埃が重なっていた。堂に金仏を納めた厨子はない。堂を飾る華蔓も華燭もない。代わりに黒ずんだ仏の立像が壁にもたれかかるように佇んでいた。粗い作りだ。しばし目が合う。
 今更恨みがましい目を向けられる筋合いはない。
「極楽の主催なのでしょう」
 堂の外の冬の気色を眺めながら、彼女は今は幸福ですからと呟く息が白く凍った。
作品名:満願 作家名:坂鴨禾火