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満願

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 なんとも間の抜けた声が彦六の喉を抜ける。この辺りに参籠するほどの霊場があった記憶がなかった。しばし考え込む気配が笠の内から漏れ出ていたが、ふとその笠を取ると、後生でございますとからと近寄って彦六の口に手を当てる。
「今はまだ、続きはおっしゃいますな。知らぬとあなたがおっしゃれば、かねてよりの心願は神仏に聞き入れられることもなく潰えます。ご存じでないなら案内致しましょう。これも何かの縁でございます」
「しかし」
「何か約束事でもあるのですか」
 容貌は月並み、いややや月並みにも劣りがちな顔で女が笑った。緑とも言えない黒髪が結い上げられてその下にあったが、なぜだか尼のようだと思った。霊験あらたかな観音様です、と口元から鉄漿が覗く。それが真夜中の不吉な闇の色を思わせて、思わず立ちすくんだのを是と取ったのかこちらへ、女が手を引いた。ちらりと隣屋の壁を見る。正太郎を起こすのにはまだ早い。
 まだ低い所が僅かに光るばかりの空を見ながら、その観音堂はどこにあるのかと聞いた。そう遠くない所ですからと女が歩き始めるのを、腕を引かれるがまま慌てて追う。
「仏の御顔もお見せできましょう。秘仏ですが、今日ばかりは特別です」
 満願ですからと言って前を行く女の足取りは軽い。低く、やがて蟠るように朝焼けが姿を見せ始めたが、何を躊躇っているのか西の山の端はまだとっぷり暮れた夜のままだ。女が野の中に降り、彦六も引かれるがまま野に降りる。あまりに行き交う人の数が少ないのか、それとも果たして本当に野なのか、道と言える道もないのに女の足に迷いはない。蹴り出しに朝露が散って、踝を流れるのが涙のようだ、と思いながら顔を上げて女の顔を眺めると、再び目深に被った笠の下から覗く目の光が思いの外強く、そのくせ諦めたようにあっさり反らされるのがひどく印象に残った。
 ──尼のような女だ。
 前を向いたままのはずの視線がちらちらと、彦六のいる辺りを行き過ぎて、少し歩みを緩めたり、またすたすたと行きかけるのを、不思議に思いながらひたすら歩く。近くと女は言ったが、もう随分歩いているような気がした。遠くで薄が音もなく揺れ、立ち枯れた八重葎の上をさらに覆うように葛がはびこっている。薮を抜けてこちらへ、と女が招く間に、また元の通り枯れ草が行く手を阻んだ。
 ぬっと白い顔がその薮から出る。
「どうかこちらへ」
 腕を掴んだままの女の荒れた指先で、萩の花ががちらちら揺れる。
 ぼうっと佇む前の女を女郎花に例えるならば、生前の袖は桔梗か撫子と言う程度には容色に優劣がある。けれども袖の面影は見る間に病み衰えて、死んだときの姿ばかり思い起こされた。むしろしなびた朝顔か──などと考えている内に女の声が三度聞こえた。袖の墓も同じ野原のどこかにあるはずだ。尼のような女が好きという割に、彦六は特別信心が篤い方でもない。正太郎は袖の墓にこそまめに参っていたが、同じ口からは神仏に誓いを立てた遊女が何人という話も聞いていたから、こちらも大して変わらない。女が言うように霊験あらたかな仏が近くにあるならば、わざわざ遠方の拝みに見せなくても手近な所で済んだものを──と思いながら、ようやくたどり着いた堂の、軋む戸を女が押し開けるのを眺めた。女の踏む足下に一群蘭草の茂みがある。半ば駄目になりかかった方が却って強く香るのか、次第に菓子のような匂いが辺りに満ちていくのを、眠気も相まってうっとりそれを嗅いでいると、ようやく戸を開く音が聞こえた。女が朝露を払うと先に上がる。
 いつの間にか空の低い辺りは暁光に満ちていた。埃じみた座布団を勧められてその上に座る。五更の頃まで女が籠もっていたせいか香の熱が残る薄闇に、方丈の主の像を納めた厨子が一つ据えられている。堂宇は三方が扉で、厚く埃の積もった華鬘が鈍く光っているのを、さっと通り抜けた外気が蹴散らしてちらちら舞った。
 ──附子から色々無心したのさ。
 袖の言葉が不意に耳に蘇る。
 彦六の傍らで、女は緑青の浮いた厨子の掛け金に指を伸ばしている。厨子の扉の内張は金、背面も金、中におわします御仏は少し黒ずんだものの金仏、花顔が厨子に比べて煤けているのはその面を柔々と拭うからで──誰かが、目の前の女やこの堂の参籠者が灯を献じて心願の成就を祈願する、あるいは何かの音信を聞こうとする、切実な願いが常に仏の顔を曇らせているからだ。どうかしましたかと眼前の女が言う。
「夢でも見ていらっしゃいましたか」
「いえ、隣の家にいる男のことが気になったもので」
 一度消したはずの花燭に再び火を点し、再び仏に礼拝するのを横からぼんやり眺めながら、この女の願い事は何なのだろうと思った。あの男も今日が満願だったはずだ。
 女は少しだけ興味がありそうなそぶりを見せたので、経緯を話して聞かせる。それで来るのを躊躇っていたのですかと口を開いた。
「恋しい人の墓に参ることも出来なければ、仏を礼拝して祈ることも出来ないとは」
 さぞかし恐ろしかったことでしょうねと小さな仏像に手を合わせて言う。
「その人は、行いを後悔することはしたのでしょうか。それとも頼んだ拝みの符の験があることを必死に願っていたのでしょうか。いえ、それがあるとは言っても一月は経つのです。ただ願うばかりでもありますまい」
「恐ろしい、恐ろしいと言って泣くばかりですよ。日が経つのを指折り数える程度で」
「他には」
「気散じに私が話しかけてやるのを聞いています。遊びにも出かけられないで、退屈でしょうから」
「何故」
「何故って──」
 言葉が途切れて、不自然な沈黙になって降りかかる。女の問いが唐突だったのは、きっと胸の内で判じ物をしているからだろう。女の心願を彦六は聞いていなかった。何を思ったのかを推量することは出来ない。口を開きかけたものの、例の目の光に気圧されて即座に口を噤む。
 そのまま時間が過ぎた。
 日が昇りきったら辞去しようと思った。それまでは女に付き合おうと思った。伏し目がちに落とした目の、蛇のような目に時折ちらつくのはいったい何であるのか、彦六が蛙だったらその場に釘付けになっていたのかもしれないが、どうやら蛙は別にいるらしかった。好都合だ──と彦六は思う。尼なら意識は仏に向かうはずだったが、厨子の中の御仏は煤をかぶったまま知らぬ顔を決め込んでいる。女の夢に現れたのであるから、もう自分には関係がないというのだろうか。もしそうであれば仏というものは薄情だ。そこまで考えていると、ふ、と女の気色が和らいで、それにしてもこの堂のことはどなたもご存じではないのですねと言った。
「遠方に住む私ですら知る程ですから、さぞかし知れたる霊場だと思っていたのですが。こんな野の中の荒れ果てた方丈であるとは来てみるまで思いもしませんでした。この辺りにお住まいのあなたもご存じないのであれば、知っているのは私一人なのでしょう。その私も今日が満願の日にございます。堂守もなければ信者もいない。人知れず厨子の扉をはがして、仏は隠して、お好きなようになさるのがよいでしょう」
 どうせ神も仏も見ておりませんから、と言った女が目の前に立つ仏の目が薄く開いてじっと女を見下ろしているのに気付いたらしく無造作にその埃を拭う。
作品名:満願 作家名:坂鴨禾火