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満願

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尼のような女が好みだと言うと、聞く人は皆笑って、だから嫁のなり手がいないのだと言う。冗談のつもりでもなくただそのように思うだけなのに、答えた彦六をよそにめいめい色白のがいいだの目元の涼しいのがいいだのと勝手に言いはじめる。
 だから彦六はこの手の話題にははじめだけ口を出して、後は半分寝たふりをすることに決めている。けれども彦六の元に転がり込んできた正太郎は、至極真面目な顔で、それもいいかもしれないと呟いて、美醜の話ではないのだろうと言った。
「姿形が好みというわけではなくて、誰かに対してひたむきだとか、はじめから手に入らないとか、そういう話だろう。珍しい考え方だが判らなくもない。手に入らないというのが、またいい」
 大体貞淑な妻なんて金輪際御免被りたいと外を眺めていた正太郎が、あれも直さねばなと呟いた。窓の外には手入れがされていない植栽が見えて、その向こうが正太郎の住まいのあばら屋だ。正太郎の傍らでは、近頃風邪気味であると床に伏せていたはずの袖が起き出して来たものの、耐えきれなかったのか正太郎にしなだれかかったままうとうととしている。正太郎はそんな袖をいとおしそうに眺めて、こちらの方が暖かいだろうからと着ていた羽織を一枚被せた。忠実な男である。
 袖と彦六は縁者だが、正太郎と彦六は縁者ではない。また正太郎は袖と夫婦でもない。袖の家族は彦六の知らぬ間に離散しており、遊女となっていた袖を身請けしたのが正太郎だ。豪農の一人息子で色遊びに余念がなかった所を、両親がまとめた縁談が意に添わなかったため、身請けしたばかりの袖と共に逃げてきたのだという。わざわざ袖の遠戚である彦六を頼ってきたのは自らの親族を頼るわけにはいかなかったからだろう。道中は捨舟に菰をかぶって添い寝などして、これも一つの風情と洒落こんでいたものの、やはり無理が祟ったのか彦六の元にたどり着いた後に袖が病みついた。
「俺の妻が、──国元にいる妻のことだが」
 しばらくしてまた正太郎が口を開いた。
「名を磯良という。こいつが醜女の神様と同じ名前の化け物で、このごろ夢にでも出るのか袖が大層怯える。京まで行けば、面白いものや目新しいものがいくらでもあるだろうから、少しは気が紛れると思ったんだが」
「華やかな所は、概して人がおっかない所ですよ。悪いことは言いません、しばらくはここにとどまりなさい」
 袖の具合も悪いようだし、と気にかけるふりをしながら袖を眺める。彦六は一人暮らしだったから、手狭とはいえ袖と正太郎を起居させる程の場所がないでもなかったが、わざわざ隣の空き家に住むようすすめたのはひとえに用心のためだ。どこの馬の骨とも知れない正太郎のせいではない。看病に余念がない正太郎を見ていると、あだな男であるようには思えなかった。むしろ袖の方が信用のならない人間だ。
 ──附子から色々無心したのさ。
 道中の路銀について正太郎のいない所で尋ねたとき、袖は肉付きの良い、柔らかな肢体を覆う着物をわざと広げて見せながら言った。
「あの不細工、紅さしたって無駄なのに着ているものだけは上物で、よほど箱入りの御姫様らしい。帯簪を試しに着させて、刺させてって言うと、妾の方がずっと似合うからしょんぼりしちゃって。素敵ね、素敵ねって妾がほめるほど惨めになるから、後から、こういうのはお袖さんの方が似合う──って頂ける寸法。夫の不貞に小言もないどころか妾にまで頭を下げる。正太郎さんがご両親から罰を食らって座敷牢に閉じこめられているときも妾宛の正太郎さんの文や小遣いを融通する始末で、まったくどっちが本当の奥様だか判らない。態のいい下女だよ。立派な下女だ」
 あんな金蔓滅多にないのに、と簪を見せびらかして笑う袖の姿は確かに見惚れてしまうものがある。袖は身を飾ることに関して一切妥協しなかった。金さえあれば良いものが買えるから、金目のものに袖は目がない。また無闇にものを欲しがるせいで、彦六の家に上がり込んで勝手に物を取っていくことも茶飯事であった。漁色も同じだ。少しは名の知れた遊女だったらしく、あの男は良いだの悪いだのと言って取り替えて最終的に正太郎に落ち着いたらしい。確かに似合いの優男、その上豪農の一人息子と来れば相手には申し分ない。その袖は青い顔をして眠っていたが、よく見ると薄く目が開いていた。彦六が見ていることに気が付くと慌ててまた閉じる。
 それがつい一月ほど前の出来事だ。
 同じように薄目の開いている袖の瞼を閉じてやってから、寝たふりではないかという不安がふっと浮かんだ。袖が死んだ。再三それを確かめて、やはり死んでいることを確認すると彦六は胸をなで下ろしたものの、傍らの正太郎の悲嘆は見るに堪えなかった。今も隣の間で泣き伏している。葬儀の手筈を全て彦六が整え、塔婆を立ててからも様子は変わらず、泣きはらす合間を縫って朝夕墓地へ参る。ついには悪いものに取り憑かれたものか、あまりにもものに怖がる様子に異様を感じた彦六が拝みの元に率いていって見せた所、死霊に取り憑かれているとの託宣が降りた。袖の霊ではない。
 あれは磯良だ、と正太郎が言った。
「国元に残してきた妻だ。それが死んで祟ったのだのだと、あの陰陽師も言ったではないか。あの性の悪い、醜い女が袖を取り殺し、そうして俺の命も奪おうとする」
 金釘の様な文字を連ねた護符を大量に渡されたときは彦六もまだ半信半疑だったが、その晩から斎戒に入った正太郎のいる荒れ屋を、ぼそぼそと何事かを呟きながら巡る女の声を聞いたときには流石に肝が冷えた。夜が明け、壁越しに昨夜の出来事を正太郎に確かめると、彦六が聞いた声と、言葉と、刻限までも一つも違わない。正太郎が土壁を隔てて物の怪に対峙しているのと同様、彦六もまた壁を隔ててその声を聞いていたのだ。日を経る毎にその声は大きくなっていった。宵に、夜半に、破鐘のような声を響かせるのを、正太郎と壁を隔てながらなんとかやり過ごすのも一月が過ぎた。
 その斎戒も今日で終わる。
 日が昇れば無事物忌みも解けるが、用心は重ねた方が良い。隣の屋では正太郎がまんじりとせずに夜を過ごしているはずだったが、さすがに明け方近くになると疲れ果てて眠っていることも多かった。
 ──まだ夜じゃないか。
 正太郎を起こさぬように彦六は足音を潜めながら井戸に水を汲みに行く。起こすのは昼近くになってからでいいだろう。夜の気が残る内では死霊がやってこないとも限らない。そう思って水を汲んでいると、釣瓶の水面が大きく揺れて、表の道に、装束を麗しく整えた女が立っているのが見えた。悪霊だろうか。振り向いて眺めるとやはりいる。
「辺りの阿弥陀堂に参籠する者でございます」
 人目を憚るのか目深に被った笠のせいで顔は見えなかった。絡げた裾で野中を行き来したのか、そこから見える足が仄白い。
「今朝方夢告を賜りまして、その夢に出で給う童子のおっしゃいますことには、堂を出てはじめに会う人の詞によって判ぜよとのことでしたので」
「阿弥陀堂、」
作品名:満願 作家名:坂鴨禾火