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短編集103(過去作品)

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ビルの一室の死体



                ビルの一室の死体


 気分転換は人それぞれである。趣味に時間を費やす者、身体をゆっくりと休めてリフレッシュする者、いろいろであろう。お金を使わずに気分転換を図るには身体を休めるのが一番なのだろうが、リフレッシュするための施設が乱立する中、リフレッシュにお金を使う人も増えている。
「健康になるんだったら、少々お金を使っても構わない」
「余計なことに使うことを思えば、健康になるというしっかりとした目的があって、自分に残ることに使うんだから、有意義なお金だと思えばもったいなくなんかないよ」
 要するに考え方一つというわけだ。
 最近の春日井直樹は、リフレッシュなどという考えが頭に浮かんでこなかった。半年前に結婚し、まだ新婚気分の抜けない直樹にとって、妻の笑顔は最高の気分転換である。幸い仕事も順調、妻の楽しそうな顔以外見たことのないくらいで、
――本当にこんなに幸せでいいのだろうか――
 と思うほどであった。
 新婚当時は妻の表情には過敏だった。ニコヤカな表情をしていても、どこか不安を取り除くことのできない自分がいることに気付いていたが、そんな表情を表に出すこともなく幸せな気分に浸っていたいと思ったものだ。
 元々疑心暗鬼にとらわれやすいタイプの直樹だったので、表情を表に出しても、
「またお前の悪いくせだな。取り越し苦労というものだよ」
 と言われ、冷やかされるだけのことなのだろうが、その冷やかしが嫌なこともある。ちょうど結婚前後の直樹の精神状態は不安定で、人から気持ちを左右されるようなことを言われたくなった。こむら返りを起こした時に、誰にも触れられたくないという心境に似ている。
 結婚して半年、仕事もそれほど忙しくないこともあって、定時過ぎれば一目散で帰宅した。もちろん、精神的には有頂天である。
 家に帰って待っている妻がいるということも嬉しいのだが、何よりも「一家の長」というのが嬉しい。それだけ責任もあるのだろうが、まだ新婚を楽しんでもいい時期、子供のことについても、
「二、三年新婚気分を味わってからでも遅くはないわね」
 と妻の千鳥は話してくれる。
 妻の千鳥とは社内結婚だった。大学時代に付き合った女性もいるにはいたが、すべて軽い付き合いで、恋愛ごっこに近いものだった。それを教えてくれたのが千鳥だったのだ。
 千鳥と実際に付き合うようになったのは、彼女を気にし始めてからしばらく経ってのことだった。社内の人間ということも一つの理由ではあったが、あまり意識しすぎると、積極的になれない直樹の性格が影響していた。
 それでも付き合い始めてとんとん拍子に結婚まで向った。途中障害がないでもなかったが、それはお互いの気の持ちようだと割り切っていた。他の人には決して話すことのできないことではあったが……。
 新婚旅行は質素に国内旅行だった。温泉を中心に回ったのだが、千鳥のたっての希望を汲んだのだ。
「千鳥が淵っていうところがあるのよ」
 と彼女が地図で示してくれた。渓谷のようなところで、あまり観光化されているわけでもないところだったのだが、近くに温泉が出たことで、ガイドブックには載るようになった。だが、それでも、なかなかそこまで観光する人は少ないとの話であった。
「前からね、行ってみたいと思っていたの」
「どうしてここのことを知っていたんだい?」
「母から聞いたことがあるの。私の名前はここからつけたんですって」
「ご両親はここに行ったことがあるんだね?」
「そうなの。だけど、そのことについてはあまり話したがらないの。それに、それだけの思い出があるというのに連れて行ってくれたことがないのよ」
「どうしてだろうね」
「しかも、千鳥が淵の話は一度聞いただけで、それ以来一度も話してくれたことがないの。特に父からは一度もないわ」
「お父さんは、どちらかというと無口な方だよね」
「私が小さい頃は無口だったわ。中学に入る頃から少し饒舌になったんだけど、最近また無口になってきたわね。でも男の人ってそうなのかも知れないわ。中年くらいになると、饒舌になる人もいるのよね」
 彼女が遠くを見つめるような目をしていたのが気になった。じっと見ているとそれに気付いたのか、
「大丈夫、心配しないで」
 と直樹を制していたが、そこには二人にしか分からない空気が流れていた。
 初めての二人だけの旅行、今までに女性と旅行に行ったことがないわけではない直樹だったが、まるで初めて女性と旅行に出かけたような新鮮な気分を味わっていた。だが楽しいだけの旅行でもなく、精神的にゆとりのある旅行でもなかった。一週間近く国内の温泉を巡る旅行であったが、あっという間に過ぎた一週間だった。
 千鳥が淵というくらいなので、山奥を想像していたが、それほど奥まったところにあるわけではない。滝というほど大きくないので淵と言っているのだろうが、想像したよりも流れが急だったのが印象的だった。
 清流と違ってまわりの森に響く音も半端ではなく、しばらく耳に残っていそうなほどだった。
 流れが風となって葉を揺らす光景は、滝と比較しても遜色ないものだ。泡立ちそうなほどの流れの中で、幾重にも連なっている線が、まるで幾羽の白鳥が羽を広げたようなイメージから、「千鳥が淵」と言われるようになったのではないかと想像がつく。少なくとも直樹はそう思っていた。
 二人並んで見ていると吸い込まれそうな錯覚に陥り、男の直樹でも気持ち悪さを感じてしまう。
――壮大さは裏に気持ち悪さを含んでいるものなのかも知れないな――
 と感じさせた。
 高所恐怖症の直樹は、高いところが苦手で、大学時代など景色のいいところへ出かけても、なかなか高いところには昇る勇気はなかった。
「人生の楽しみの半分を損しているようなものだな」
 と冷やかされたが、その言葉、実は今までに何度も聞いている。
 乳製品が苦手な直樹は、食べれるものが限られている。皆で食事に行っても、チーズ、バター関係の乳製品はまったく受け付けないため、皆から皮肉をこめて、
「人生の楽しみの半分を損しているようなものだな」
 と、よく言われたものだ。
――そうしょっちゅう人生の楽しみの半分を損していては、楽しみがなくなってしまうではないか――
 と思わないでもない。
 だが、半分の半分、そしてまたその半分と考えてみても、結局ゼロになることはない。
――限りなくゼロに近い――
 という状態になることはあっても、ゼロになることはない……、などと他愛もない計算をしては、自分の中で勝手に納得していた。
 吸い込まれそうな流れを見ながら他愛もない計算が頭に浮かぶのも、怖いものを見た後に忘れたいという意識が働いた時に似ている。千鳥が淵を見ていて、何か恐ろしいことを忘れようという意識があった証拠なのだ。
 だが、忘れようと意識したことは覚えていても、それがどういう恐ろしいことだったのか意識がない。
作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次