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短編集103(過去作品)

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「子供に手が掛からなくなってすぐの頃には、表に男の人がいたものよ」
 と言って、少しはにかんで見せる。若気の至りとでも言いたいのか、それとも、今となっては時効として自分の中での武勇伝を喋りたいのか、無邪気な笑顔の奥に淫蕩な雰囲気を感じた。
――いやらしいわ――
 以前の理恵なら感じただろう。だが、今の理恵は開放感からか、他人の行動が羨ましく感じられる。以前であれば雁字搦めであった感覚が強かったので、
――どうせ私にはできないことだわ――
 と、半分諦め、半分やっかみだった。六四の割合で、やっかみが強かったかも知れない。
 だが今では手を伸ばせばどこにでも手が届きそうな気がするくらいで、諦めのない分、やっかみもない。やっかみがなければいやらしさもないというもので、自分が危険な情事の主役であったらと想像までしてしまいそうだった。
 夢に男の人が出てきて、抱かれることを以前から予感していたのかも知れない。気になった男の人がいれば、自分の中で勝手な想像が膨らんでくることも許容範囲ではないかとも思える。
――自分に甘くなったのかしら――
 確かにそうかも知れない。
――あなた、ごめんなさい――
 夢の中で何度も呟いていた。それは罪悪感からなのか、男としての旦那に対する意識が薄れてしまったことへの侘びなのか、自分でも分からない。
 旦那は旦那として男を感じ、それだけでは満たされない欲求が不満になっている。気持ちに不必要な余裕があるから生まれる感情ではないだろうか。
 理恵は恵一の立場になって考えてみることにした。
 彼は真面目一筋、真面目な男性が基本的には好きな理恵だからこそ、彼を結婚相手に選んだのだ。そのことに後悔などしていない。今でも最高の夫だという気持ちに変わりはない。
 だが、環境が変わってしまったことで、今まで自分の中で眠っていた別の自分が目を覚ました。
――あの人にももう一人の自分がいるのかも知れない――
 一緒にいて、そのことをずっと感じていたように思う。理恵はいい意味で解釈していた。
――私と一緒に時の彼が本当の彼なんだ――
 と交際期間中ずっと思っていた。
 男に表の顔と裏の顔があることに対して理恵は決して否定的ではない。むしろ当然ではないかと考えている。いくつかの顔を持っていても、本当の自分が現われるのは、自分の前でだけであれば、それが最高の幸せである。
 恵一も同じことを言っていた。
「君は僕の前ではありのままを曝け出してくれる。そこが君の一番いいところであり、僕が好きになったところだね」
「私もよ」
 こんな会話があって、結婚を決意した。お互いの気持ちを探りあいながら、交わってはすぐに離れていた関係の中で、交わったまま離れない感覚の一つを発見したのだ。
 同じような性格であっても、交わらない平行線であれば、いくら好き合っていてもうまく行かないこともあるだろう。お互いのことが分かるだけに、いいところだけではなく、嫌なところもしっかり見えてくるというのは、長く一緒にいればいるほど苦しくなるものではないだろうか。
「少々、性格が違った方が、お互いを補い合ってうまく行くことだってあるというものよね」
 それが結婚というイベントの前と後で、少しずつ心境に変化が現われてくるというのも、無理のないことなのかと、理恵はずっと考えていた。
 結婚してずっと一緒にいた。単身赴任で、少しの間一緒に暮らすことができない状況にある。お互いを見つめなおすことのできる余裕もできてくる。真面目なだけに、その時間が自分を見つめなおすための時間であることは恵一には分かっているはずだ。真面目な人ほど一人で考えていると、堂々巡りを繰り返し、とんでもない方向に考えが波及してしまうこともないとは言えない。恵一の性格は分かっているつもりだった。
――他に女の人ができても、不思議ではないわ――
 疑心暗鬼を起こすと、理恵も堂々巡りを繰り返してしまう。
 理恵は夢を見た次の日に、夢で見た男を見かけた。かなしばりに遭ったかのように立ち尽くし、それが夢か現実か分からなくなっていた。
 男のぬくもりを感じる。じっと目を瞑って男の愛撫に耐えている自分を思い浮かべる。心地よさが襲ってくるが、相手の顔を見ることができない。
 恥ずかしさから目を開けることができない自分がいる。まるで初めての男性に抱かれた時の思い出が頭を巡る。目の前に見えているのは、白い花びらが散っている風景である。
――本当に欲求不満からの妄想なのかしら――
 妄想による夢だと自分の中で確信しているつもりだが、どこまでがそうなのか、自分でも分からない。
 待ちわびていた瞬間を迎え、このまま時が止まってしまうことを望んでいる。相手の男に陶酔してしまって、逃れられない自分を想像してしまうのだ。
――夫は他の女を抱いているんだ――
 これこそが、自分に都合のいい解釈である。そんなはずはないと思っている自分がいるのも事実であるが、どうしてそのことを感じるかというと、以前に夫が話していたことを思い出したからだ。
「女性はどうなのか分からないが」
 と前置きがあった上で、
「男っていうのは、もし女を裏切ろうという気持ちがあっても最後は、女との楽しかった時のことが頭に浮かんできて、結局裏切ることなんかできないんだよね。臆病とでもいうのかな?」
 と言って笑っていたが、それもウソではないだろう。だが、その時の理恵は漠然としてしかその話を聞いていなかった。
 女性は逆かも知れない。
 男が最初は羽目を外すつもりでも、最後は我に返るのとは逆に、女性の場合は、最後まで必死に自分を保とうとする。我慢していると言ってもいいだろう。だが、一瞬たがが外れると、歯止めが利かなくなるものである。そのことは理恵には分かっていた。
 今までにそんな経験をしたことがあるような気がしていたが、どこでだったか覚えていない。夫との平行線の部分を意識しないようにしていた。絶えず、至近距離でお互いを見つめているつもりでいたが、それは至近距離でいるだけに交わることのない平行線であることを示している。
 もし、少しでも平行線でなければどうだろう? どこかで必ず交わるが、交わってしまったら後は離れていく一方。交わった時の思い出を最後に思い出す男、交わったことを最後まで忘れずに、最後の瞬間に忘れてしまって後は、離れていくばかりだと感じてしまう女。要するに二人とも一直線にしか生きられない性格なのかも知れない。
 理恵は夢の中の男が自分にとっての理想の男であることを自覚している。男に抱かれて自分を見つめなおしていることも分かっている。
 自分を抱いている男、それが旦那の顔に変わりさえすれば、平行線は交わることはないが、決して離れることのないいい関係であることを示してくれるであろう。
 理恵は思っている。
――夢を見ているという夢、これこそが、自分の中の平行線ではないだろうか――
 部屋の中では、柑橘系の香りが漂っていることに気付いていた……。

                (  完  )

作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次