短編集103(過去作品)
胸騒ぎがしたのはその男の後姿に心当たりがあったからだ。夢だからこそなのだが、その男がこちらを振り返った瞬間、まず間違いなくこちらに襲い掛かってくるという実感があったからだ。
男がこちらを振り返った姿を思い浮かべてみた。
男が叫ぶ。
「お前はこの世では必要ないんだ」
そう言って、直樹の首を絞めに掛かってくる。その表情は直樹の見たことのある顔ではない。想像したことはあるが、したとしても夢の中でであろう。
――今までにも見たことのある夢だったんだろうか――
直樹は疑心暗鬼に掛かってしまった。自己暗示に近いと言ってもいい。
だが、男は振り返ることもなくずっと窓の外を覗いている。
眠っている自分はまったく動かない。
――本当に眠っているのかな――
近づいて様子を見てみた。夢だからできることなのだが、触ってみると冷たくなっている。
――死んでいる――
夢の中とは言え、死んでいる自分の姿を見るなど恐ろしい。別人が死んでいるのを見るのとどちらがショックなのだろうなどと、ショックも極致に至ると、おかしなことを考えるものだ。
というのも、直樹の会社で殺人事件があったのが今もなお頭に残っているからだ。
殺されたのは他ならぬ社長で、場所も昨日チケットを貰いに入った社長室であった。
あの部屋には一度も入ったことがないと思っていたにも関わらず記憶があったのは、社長が殺される数日前、社長室から血相を変えて出てきた千鳥を見かけた時だった。
そのことについて言及はしなかったが、ひょっとして社長室にお茶を持って入った時、セクハラまがいのことでもされたのではないかと思ったからだ。ちょうどその時、開けっ放しになった窓から見えたのがKホテルだったのだ。一瞬だったが、その時も眩しくて窓が光って見えたことが印象に深かった。あまりにも眩しすぎて、この間社長室から見た時とはあまりにも違っているので、思い出せなかったが、Kホテルだったのは間違いない。あの方向にあれだけ高いビルはなかったからだ。
数日後に発見された社長の死は今でも謎である。誰に殺されたかということもそうなのだが、動機についてもハッキリとしない。ある意味では社長を殺そうと思っている人がたくさんいたというのが後になって明らかになってきている。
「あの社長、死んでも当然の人だったようだよ。結構仕事の上でもプライベートな上でも好き勝手していたみたいなので、側近の人たちも嫌がっていたようだよ」
と話していた。
お茶汲みを一人の女性に頼まないで交代制にしていたのも、社長の悪趣味の一つだったという噂もあれば、逆に誰か一人が社長の愛人で、その人をカモフラージュしようとしたのが目的だという噂もある。
直樹は今でも不安で仕方がない。妻の千鳥のことである。
――まさか社長の愛人だったというわけではないだろうな――
まさか聞くわけには行かないし、それに社長はもう死んでいる。過去のことを穿り返して何になるというのか、なお気にとって大切なのは今の生活である。
それにしても夢見はよくなかった。結婚してから出張がなかったせいもあって、一人でどこかに泊まるのは初めてだった。ホテルに一人でいて、自分が死んでいる夢を見るというのもおかしなもので、それも会社の見えるビルの一室というのも気になる。
自分の会社をじっと見ていると、不思議なことを思い出した。
千鳥が社長室から出てきた時間は、確か夕方だったはずだ。今よりももう少し早い時間だっただろうが、確かにあの時ホテルの窓に太陽の光が当たって光っていたのだ。
今度はまったくの反対方向から会社を見ているのに、会社のビルの窓が太陽の光に光って見えないというのはどういうことだろう。理屈としてはおかしくないだろうか。
――一瞬だったので、光っているように見えたのは気のせいだったのではないか――
とも思えた。
だが、その時社長室には何か光るものがある、それが窓に反射したのかも知れないと感じた。そういえば、あの時、
「カッチャン」
というような金属が落ちる音が部屋の中から響いた気がした。
社長室は絨毯に覆われているので、金属音が響くわけはない。ただ奥に、小さな給湯室のようなものがあり、そこは絨毯は敷かれていないと後で聞かされた。
――落ちたのはナイフではなかっただろうか――
そう感じたのは、社長の死体が発見されたのがちょうど給湯室で背中からナイフで刺されたというのを聞いたからだ。最初は女性従業員が疑われた。千鳥はその時は退職していて会社にはいなかったので、容疑から外されていたので、あまり意識していなかった。
社長が死んで新社長が就任するまでにはあまりにもとんとん拍子だったことも今から考えれば筋書き通りだったのかも知れない。
直樹自身も前の社長に比べれば新社長の方を数倍信じられる。それほど、従業員にも信用されていない社長だった。ワンマンというのとは少し違う。封建的とでもいうべきか、人間的なところでどこか足りない人だったのだ。
やはり千鳥は前の社長に何かをされた公算が強い。千鳥が水周りを怖がるのは、ひょっとしたら社長の影響だったのかも知れない。そう思うと死んでくれて嬉しい限りだ。
だが、直樹は人が死んだことにそれほど割り切る気分にはなれない。夢で自分が死んでいるのを見ているからだが、かつての社長の殺人事件を思い出してみると、死ぬべくして死んだ人だと、起きてから会社のビルを見ることで割り切ることができるような気がしてきた。
――そういえば先ほどの自分の死体だが、あれは自分ではないように思う――
今まで割り切ることのできなかった自分だと思うと急に気が楽になってきた。
窓の外から会社をじっと見つめる男、その男こそ自分ではないのだろうか。割り切れない自分を自分の中で葬って、原因である社長室をじっと表から見ている。
千鳥のことを信用しているつもりで、心の中のどこかでわだかまっていたに違いないと思っていたのも、付き合い始めるきっかけとなった出会いが、少し作られたように思えたからだった。
いつもと違う方向から帰っていた千鳥を見かけて声を掛けた。それは千鳥が社長室から出てくる一件を見る少し前だったので、直接は関係ないと思ったが、社長室の一件があってから直樹の心の中で静かな闘志が燃え出したのだった。
――やはり思い過ごしだ――
疑えばキリがない。
疑いを持っていた自分は夢の中で死んでいる。
直樹は夢から覚めると熱っぽさは消えていた。軽く掻いた汗が熱を下げたに違いない。だが、どれだけ浅い夢であってもこれほど夢の内容を鮮明に覚えているというのは珍しい。
今ならシルエットで見えなかった男の顔が見えてくる。間違いなくその顔は直樹自身である。自分でも信じられないようなすがすがしい笑顔、そこには何の屈託もない。千鳥が淵をじっと見ていた時の自分を思い出しているようだ。
直樹は今考えている。
千鳥が淵で見た水の勢い、何もかも洗い流したかった気持ちがその時の千鳥にあって、その時に今自分が戻ったのだと……。
――本当に夢から覚めたのだろうか――
西日はすっかり暮れていて、ビルから明かりが点々とついてくるのを感じていた……。
作品名:短編集103(過去作品) 作家名:森本晃次