短編集102(過去作品)
「面と向って話をしてもらう必要はないのよ。ただお手紙を渡してくれれば、それでいいの」
と言って、まだ封をしていない封筒から便箋を出して、中身を見せてくれた。
少し丸めの女性らしい文字だが、全体的に整った文字は性格を表していた。三浦少年など文章を書く時など、必ず右上がりの字になってしまい、
「お前は落ち着きがないんだろうな」
と学校の先生から指摘されたこともあった。
「そうですか? 自分では落ち着いていると思うんですよ」
皮肉に聞こえたかも知れないが、本音だった。
彼女は漁師の男がいつも何時頃にどこにいるかということをある程度把握しているようだ。
――それだけその男のことを気にしているのに、どうして嫌なんだろう――
と、後か冷静に考えれば分かることなのに、その時は正義感からか、まったく頭にそんな考えは浮かんでこなかった。
――彼女に言い寄る男は皆敵だ――
とまで感じていたのかも知れない。
人を好きになるということがどういうことかなど、分かるはずもなかったのに、彼女との数時間はきっと、
――ずっと自分の記憶から消えることはないだろう――
と思えるほど鮮明だったにも関わらず、まるで夢を見ているような出来事だと思っている自分もいる。
どちらが本当なのか分からないのだから、きっと夢に近いに違いない。彼女の初対面で本当ならずうずうしいお願いを聞く気になったのも、夢に近い感覚があったからだろう。
いくつかのおかしなことを、
――おかしいな――
と感じながらも、彼女に言われるまま、その男に手紙を渡した。
渡した時、緊張から何も言えなかったが、目は完全にライバルを見ているように挑発的だった。そんな三浦少年を見下ろしていた男の顔には挑発を受けるイメージはない。終始ニコニコ微笑んでいて、
「これ、読んでください」
と言って渡した手紙の裏側を見て、すぐに彼女からの手紙だと分かったに違いない。実に嬉しそうな表情をしている。
――何も知らずに微笑んでいるな。さぞや中身を見て落胆すればいい――
と、勝ち誇った気分になっていた。当然、表情にも表れていたことだろう。
「君がどうしてこれを?」
男が最後に一言言った。
「どうしてだろうね。お姉さんとは今日会ったばかりなんだ」
というと、男が納得したような表情で、
「ありがとう」
と最後に言っただけで、すぐに踵を返して歩き始めた。
――しまった――
三浦少年の直感だった。言ってはいけないことを言ってしまったように思えてならない。だが、もう後の祭りだ。
――あいつは僕の一言で何かを悟ったのかも知れない――
と感じた。
――彼女に悪いことをしたな――
ただ渡せばよかったものを、余計なことを言ってしまったがために手紙の意味がなくなってしまったらどうしよう。手紙を無事に渡したということを告げただけで、最後に言葉を交わしたことは、結局彼女には話せなかった。
――自分で渡せばいいものを僕にやらせるからだ――
と最後は開き直るしかなかった。だが、同時にこれで彼女と次から会うことは難しくなったと感じたのも事実だった。
最初こそ彼女のためになるのだと思って誇りにさえ感じていたが、実際に渡してみると、相手も自分と同じ男性であることに気付いた。挑戦的な目を少しでもしてくれれば後悔などなかったに違いない。
どちらにしても二人ともう会うこともないだろう。もうこんな経験は真っ平だった。
しかし、しばらくして二人が結婚したという話を聞かされた時は、ビックリした。それまで本当にあの日の出来事を忘れていたからだ。あまりにも現実離れしていたので、
――あれは夢だったんだ――
と感じることができたからだ。
現実を夢に見るのではなくて、夢を見たからそれが現実になったという話から夢だったと思うことができた。
結婚したという話をしてくれたのは、他ならぬ母親からだった。
「奥さんの方が、どうも相手の男性が煮え切らないことに業を煮やして、自分から何か計画したみたいね。あの奥さんの性格からすれば分からなくもないわ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
これだけは聞いておきたかった。
「この街の男性は皆引っ込み思案な人が多いのよ。自分からアタックしなければ、何事も進まないわ。それはお母さんが一番よく知っているの」
母親の表情が淫靡に歪んだ。その時の母親の顔を、三浦少年は決して忘れることはできない。
「私は都会にいる時から現実的なところがあってね。何かをする時はすべて計画した時の下準備で何もかも終わらせるようにと思っているのよ」
と言っていた彼女の顔が思い出された。その時の彼女の顔しか思い出せない。
――消極的な男性を嫌っていたはずなのに――
と思わないでもないが、自分がダシに使われたことを恨まなくもないが、おかげで見えてこなかったものが見えてきたようだ。
三浦少年は大きくなって今弁護士になった。弁護士になろうと思った最初のきっかけがその時だったことは言うまでもない。
――悪を許せない気持ち――
これが一番大切なのだが、もう一つは、何かをする際にすべて計画した時の下準備ですべて終わらせるという気持ちがもっと大切だと思っている。
途中でいくら情が加わろうとも、最初に感じたことを貫く冷徹な弁護士、それが今の三浦である。
ビルの谷間を歩いていると、後ろから誰かが歩いている音を聞くことがある。
「コツコツ」と乾いた革靴の音が響くのだが、決して後ろを振り向くことはない。影が迫ってきているのを感じ立ち止まると、影も止まるのだが、音だけは次第に大きく響いている。
――あの時のお姉さんは、お母さんと同じだったのかも知れない――
迫ってくる足音が二つに割れるのを感じていた……。
( 完 )
作品名:短編集102(過去作品) 作家名:森本晃次