短編集101(過去作品)
そう、小学生の頃に学校から遠足で出かけた時だ。遠足の帰り道など、まるで自分の身体ではないと感じたことがあったほどである。小学生の頃の遠足というと、前の日など興奮して眠れないくらいだった。学校から離れて表に出かけることがそれほど新鮮だったのだ。きっと苛められていたことから逃れられる短い間たったのかも知れない。事実、遠足で苛められることはなかった。それだけ環境の変化は人の心を微妙に動かすもののようだ。
遠足での楽しみの一つに、お昼の時間がある。それぞれ親に作ってもらったお弁当を広げて青空の下で食べるのだが、これほどの開放感はない。それは苛めっ子も苛められっ子も皆同じである。
一番の開放感を味わったお昼を過ぎると、身体に気だるさが襲ってくるのも仕方がないことかも知れない。
旅先の感動は、小学生時代に感じた遠足に似ている。小学生時代一番好きだった遠足が今の旅行だと思えば、夕方に感じる気だるさも分からなくない。
小学生の時の遠足で一番思い出に残っているのは、山に行った時のことだった。学校からそう遠くないところに小高い山が聳えていたが、小学生の遠足としては、少しきつめだったかも知れない。
最初は岩場ばかりのところを歩いた。足が痛くなりかけるが最初だから上ばかり目指すことで乗り切るのは簡単だ。
途中から平坦な道が広がっているが、すすきの穂が見えてくるところまで来ると、ほぼ半分来たことになる。足が少しこわばってくるが、適当な汗が心地よく感じられたりもするのだ。
それを登りきると頂上が見えるあたりに、大きな滝がある。
すすきの穂がきれいに生えそろっていたあたりは、太陽の光を遮るものなど何もなく、暖かさですぐに汗も乾いてくるが、滝があるあたりは、まわりを大きな木々に囲まれていて、夏の時期でもヒンヤリとしている。
今までにも遠足の夢を見ることが多かったが、そんな中で出てくるのはすすきの穂で休憩しているシーンと、滝に向かって歩いているシーンの二つがほとんどである。しかし、最近では滝のシーンとは別に、滝の奥を歩いているイメージが膨らんできて、見えてくるのが湧き水の溢れているシーンである。
実際の遠足では湧き水が溢れてくるシーンなど記憶にはない。滝となって流れる水のさらに上流には綺麗な湧き水が溢れているという想像はついていた。一度行ってみたいと思ったことがあったが、遠足は集団行動、自分だけ単独行動するわけには行かない。
湧き水が出ているという話は親戚のおじさんから聞いたことがあった。
「三郎君の学校は、登山があるんだってね」
おじさんが遊びに来た時に、ふとそんな話になったが、その時にしてくれたおじさんの話が印象的だったのだ。
あれだけ山の高い位置に滝があるというのも珍しいという話なのだが、おじさんが話すには、
「あの山は、昔はもっと高かったらしいんだよ。もっとも神話の時代の話らしいんだけど、あの山に住んでいた兄弟の神がいたんだが、いつも兄弟喧嘩をしていたらしい。父親が大切にしていたものを壊してしまったことで、父親が怒って、山を半分折ってしまったというんだね。信じられる話ではないが、折れたところから湧き水があふれ出して、そのまま滝になって流れ出したというのも、面白い話だね」
という話である。
湧き水がどれほどのものかは想像するのは難しい。滝が豪快であればあるほど、湧き水がゆっくりと溢れてくるように感じるのはおかしなものだ。
チョロチョロという音ととともに、木漏れ日の中、湧き水が溢れる場所。一体どれだけの人が湧き水も見たのだろう。たくさんの人が見ているのに、存在を知りながら、見たいと重いながら見ていない自分が残念である。それだけに夢に出てくるのかも知れない。
小学生の頃に転校していった女の子は遠足が好きだった。特に登山になると、前の日から楽しみで眠れないほどらしい。
「旅行に行くような楽しみがあるのよ。特にあの山の上から住んでいるところを見ると、田んぼばかりの中にちっぽけな家がたくさん並んでいるのが見えてくると、本当に自分の住んでいるところなのかって思っちゃうのよ」
と三郎には理解できない考えを持っていた。
だが、それが登山の醍醐味だというところが、他の人にない彼女の気になるところなのかも知れない。
ミステリーを読んでいる中で田舎の話が出てくると、何となく懐かしく感じるのは、気がつけば湧き水を思い出していたからかも知れない。最初は、すすきの穂を思い出すだろうと思っていたが、意外やすすきの穂でも、大きな滝でもない。見たこともない湧き水だったのだ。
そういえば、一度遠足で湧き水を探そうと少しわき道に入ったことがあった。先生に気付かれることなく入っていったが、それはチョロチョロという音が聞こえてきたような気がしたので、誘われるように入っていった。
本当に自分の意志がその時に働いていたのかすら覚えていない。大きな滝の音がしているのに、聞こえてくるはずのない湧き水の音だったのにである。
ダメだと言われれば余計にやりたくなる気持ちになる人がいるらしい。三郎はあまり冒険をする方ではないので、人から止められると余計なことはしない性格だった。消極的とも言える。だが、欲に関しては飽きるまでしないと気が済まない。どこが違うというのだろうか。
自分の中の欲を貫くことは、自分の中だけのことで、別に他の人に迷惑を掛けるわけではない。しかし、冒険ともなると、人に迷惑をかけてしまう。結局まわりのことを気にするあまり、冒険をしないので、自分の中溜まってくるだろう欲求を吐き出すことをいとわなくなってくる。どちらがいいのか分からないが、抑えて苦しむよりもいいと感じていた。
人から見れば逆に見えるだろう。三郎が他人の目で自分を見ていれば冒険をするくらいの方が勇ましく感じられるかも知れない。それと自分が感じる夢とではどこが違うというのだろう。
春の日に見たように思える湧き水、その中にこそ今まで見えなかった自分の気持ちが隠れているように思えてならない。夢に出てくることが潜在意識の成せる技であるならば、小学生の頃好きだった女の子が忘れられず、すべて自分の好みがその気持ちから形成されているに違いない。
夢は大きく弾むもの。その中で欲を抑えることがどれだけナンセンスなことかを、寝ていて見る夢が教えてくれる。
湧き水、弾む、春の日差し……。スプリングとはよく言ったものである……。
( 完 )
作品名:短編集101(過去作品) 作家名:森本晃次