師弟
4
ハジメを追い出してから、2週間ほどがたった。
最初は、ハジメがいなくなってせいせいしていた河合も、この頃、どこか心に空虚さを覚えるようになっていた。
(以前の生活に戻っただけ。以前のように生活していればいいだけだ)
そう心に言い聞かせて、バイトやライブなどを地道にこなしていた。
やることがあるうちはいい、それに熱中できるから。だが、少し時間が空くと、やはりハジメはどうしているかを考えてしまう。運良くというか、運悪くというか、ライブでハジメと会うことはなかった。最近はテレビも見ていない。ハジメが出ているからというわけではないが、なぜか見る気が起きなかったのだ。
「元気にやってっかな……」
河合が思わずこぼした瞬間、知り合いの芸人からLINEのメッセージが入った。ハジメが暴行事件を起こして、勾留されたという内容だった。
「…………」
ハジメの釈放の日、河合は彼を迎えに来ていた。
ここに来るまで、河合はさまざまなことを考えてきていた。
(あんなやつ、もう弟子でも何でもない、このまま放っておこう)
最初はそういう考えが、心中の大半を占めていた。
(だが……)
考えるたびに、別の考えが頭をもたげてくる。
(俺が行かないで、どうするんだ?)
河合は、バイト中もライブ中も、このことばかり考えていた。バイトで仕事をしくじり、店長にこっぴどく怒られもした。ライブでネタをトバし、どうしようもない空気にもなった。だがそれでもハジメを迎えに行くかどうかを、考え続けていた。
釈放の当日、結局、ハジメの迎えに行くつもりで動いている自分に気がついた。思わずそれに苦笑してしまう。
そうだ、ハジメに会ったらどうやって声をかけようか。普通に考えれば、あいさつをすればいい。それだけだ。だが、河合もハジメも芸人のはしくれである。暗く落ち込んでいるあいつを励ます意味で、笑いを取りに行く方法もないではない。
(一ネタ、仕込んでおくべきか……)
だがこの方法には、大きなリスクが存在する。スベったら、しゃれにならないのだ。それに、今即興で考えて、面白いものが浮かぶかどうかも分からない。さらに、師匠としての体面もある。
(普通に「お疲れ」が無難だろうな)
そうやって考え込んでる間に、警察署に着いていた。
釈放されたハジメは、それほど疲れている様子もなかった。それよりも、勘当したはずの師匠が自分を迎えに来たことに驚いていた。
「おい、何してんだよ?」
「ハジメ、お疲れ。何してんだって、何だ?」
「こないだ俺のこと、家から追い出したじゃねえか」
「ああ、そんなこともあったな」
「あんな怖い顔で人を追い出しといて、何で迎えに来てんだよ」
「ん。気が変わった」
「何だよ、この師匠」
「人、殴るような弟子にふさわしい師匠だろ」
「……確かにそのとおりかもな」
河合の家に向かいながら、そんなやり取りをしているうちに、お互い笑いがこみ上げてくる。
「ウフフ」
「エヘヘ」
2人は、傍目から見るとひどく気持ち悪い笑いを浮かべながら、河合の家へと入っていった。
再び、2人で生活するようになった河合とハジメ。だが、その前途は、大変厳しいものだった。テレビに出始めていたハジメの知名度は、もう十分と言えるほど高く、雑誌や新聞が大々的にハジメの事件を取り上げ、ニュースでも『人気芸人の裏の顔』だとばかりにハジメのことをあげつらう。収録を済ませていたテレビ番組は、そのほとんどがボツとなり、残ったいくつかもハジメはモザイクをかけられて放送された。それはまるで、ハジメがこの世からいなくなったかのようなありさまだった。
「しばらく、謹慎したほうがいいな」
ハジメはフリーで活動していたので、すぐにでもライブに出ようと思えば出ることができた。だが今は、特にネットなどでの炎上が怖い世の中である。世間の動向を慮り、ハジメはしばらくの間、ライブからも遠ざかることを余儀なくされた。すなわち、ハジメはバイト以外の収入源を一切、断たれてしまったのである。
そのアルバイトも、ハジメは週2でしか入れていなかった。ライブでの受けもよく、テレビへの出演が続々と決まっていた中で、少しずつバイトの日数を減らしていたからだ。それを、事件を起こしたのでまたバイトを増やします、なんてのはまかり通るはずがない。ハジメは、バイトを増やすどころか、反対に不祥事を理由にクビにされてしまう。そして当然、事件を理由に新たなバイトが決まることもなかった。
将来のスター候補から、ただの無職に成り下がってしまったハジメにとって、頼れるのは形ばかりの師匠である河合だけだった。ハジメは師匠の家に住み込み、この売れない芸人の身の回りの世話をし続ける。部屋の掃除や洗濯、食事など、弟子になった当初のあのごくごく短い期間のように、かいがいしく世話をし続けた。一方で師匠の河合は、そんなハジメをひたすら勇気づける。おまえには才能がある、今は時節が悪いだけ、必ずおまえの時代が来るとハジメを鼓舞し続けていた。
しかし、時というのは意地の悪いもので、こういうときに限って妙にその歩みが遅くなる。ようやくじりじりと一週間が過ぎ、永遠に感じられるような一カ月が過ぎる。しかしそれでも、謹慎明けと目した半年後ははるか遠くに存在していて姿を表してくれない。
そんな苦しい状況の中、二人は、河合の家で楽しく過ごしていた。時の歩みの遅いのを逆に楽しむかのように、2人はお笑い番組を一緒に視聴し、笑いについて遠慮のない意見を戦わせる。河合のライブの結果を報告し、どこが良かったか、悪かったのか意見を交換し合う。以前のように、考え方の違いで反目し合うことはなく、お互いのセンスの違いをお互いが理解しあい、より議論が深まる形に発展していくようになった。
そんな日々を過ごしていくうちに、ゆっくり、ゆっくりと時は流れ去っていく。2カ月、3カ月、4カ月、5カ月……。謹慎明けである、半年後が、すぐそこまでやってきていた。