師弟
5
ハジメの謹慎が明ける日は、晩秋だった。
枯れ葉が舞い散り、木枯らしが吹きつけるさみしい季節。復帰にはやや不似合いな季節だが、かといって一刻も待っている猶予はない。
いつも出演させてもらっていたライブ主催者のほうから、今月の開催日をハジメ復帰の日に合わせるという異例の連絡があり、ハジメの再起への準備は着々と進んでいった。
当のハジメ本人も、指折り数えて復帰の日を待ち望んでいた。共演する芸人を確認し、とっておきの新ネタをおろして黙々と練習を行い、話題を振られた時のエピソードトークも手を抜かず用意しておく。
これ以上ないぐらい完璧な状態での復帰。ライブの主催者や共演者、周囲の人間、他ならぬハジメ自身でさえも、誰しもがそれを信じて疑ってはいなかった。
だが、そのころ。師匠である河合の身に、重大な異変が起きていた。
最初は、なんとなくこのごろ調子がよくない、その程度だった。風邪がいつまでたっても治りきらないような、あの感覚。せきや微熱、軽いだるさがあるにはあるが、医者にかかるまでもないかという、あの感じ。そんな微妙な体調がしばらくの間、続いていた。
ハジメの復帰の三日前。河合は前日のライブ明け、打ち上げでいくらか酒を飲み、その翌日、軽い二日酔い状態で牛丼屋のバイトに出かける。バイトが始まってから数時間は、何の問題もなかった。いつものように、牛丼の盛り付けなどもきちんと行う事ができていた。だが、バイトも折り返し地点に入ったころに、事件が起きる。
「キャーッ」
シフトで出社してきた女性の同僚が、たまたま調理室に目をやった瞬間、絶叫する。河合は、牛丼の寸胴鍋に頭を突っ込んで、気を失っていた。叫び声で気を取り戻したのか、河合はフラフラと半身を起こして、寸胴鍋から抜け出る。顔は血の気が引いて真っ青になり、目はうつろであらぬ方向を向いていた。
幸いお客さんには見られていなかったので、鍋を洗い、中身を総入れ替えすることでかたはついたが、店長からきつく叱られることとなった。それでも河合は、残っている時間も働こうとしたが、さすがに同僚たちがそれを止める。尋常じゃない顔色だし、また何か面倒なことをされたら困ってしまう。まずは医者に行ってこい。河合は彼らの言葉を受けて、家に帰ることにした。
どうにか家に帰り着き、布団を敷いて潜り込む。医者にまでいくほどではない。しばらく眠りさえすれば、良くなっているだろう。河合は、そう楽観的に考えていた。今までだってそうだった、こんな風邪みたいな症状、一日二日寝ればケロリと治る。今回もきっとそうなるに決まっている、そして、元気な体でハジメの再起を祝うんだ。そういうつもりで、河合は眠りについたのだった。
翌日。だが、一日たっても体調は良くならない。かえって、悪くなったような気さえする。でも、もう一日あれば、今度こそ良くなるに違いない。それに、ここで下手に病院などに行って、ハジメの復帰に水などを差したくない。今が底なんだ、これ以降、必ず快方に向かうはず。河合はそう信じて布団を深くかぶり、せきこみながら無理に目をつむった。
だが、河合の体には、もう限界が来ていた。売れない芸人生活を20年近く続けてきた。その間ずっと、カップ麺やコンビニ弁当のようなジャンクフードで腹を満たしてきたのだ。そして、芸人とバイトの両立は、否が応にも河合の睡眠時間を奪っていった。河合は、売れこそしていないが、こと芸に関してはストイックであった。一晩寝ずに新ネタを作り込み、これまた寝ずに練習をすることなどざらだった。その無理をしてきたツケが、40の齢をこえてとうとうやってきたのである。
3日目、ハジメの復帰当日。ハジメはあらためて師匠にあいさつをしようと、ライブ前に彼の宅に立ち寄った。
そこで、もう既に布団から出ることもできない師匠を見つけたのである。
隙間風の吹くアパートの一室で、薄っぺらい布団に包まる河合は、以前見た彼とはすっかり別人だった。目はくぼみ、頬はこけ、体は糸のようにやせ細り、肌は既に白を通り越して土気色。何をすればこうなるのか、というようなやつれっぷりだった。
「師匠?」
ハジメはあまりの驚きに口をパクパクさせていたが、やっと声を出す。それを聞いた河合は、何も言わず力なく首を振り、ハジメへライブに行くように伝えた。
「いや、救急車、救急車」
ハジメは河合の指示を無視して、スマホを取り出そうとする。だがそれを、河合は、少し起き上がってハジメの顔を見ながら、かすれた声で一喝した。
「早く、ライブへ行け」
「……でも」
ハジメは戸惑いながらも、それでもスマホをポケットから取り出した。そんなハジメに河合は今度は諭すように言う。
「もう遅い、どこで死ぬかだけの違いだ」
「…………」
「いいか。芸人、親が死のうが師匠が死のうが、客、笑わせなきゃなんねえんだ」
芸人、ワイワイ河合が、唯一弟子に伝えた、教えらしい教えだった。
「……師匠」
「分かったら、早く行ってこい」
「……はい」
「それと……」
河合は、しんどくなったのか、起き上がるのを止め、再び布団に寝っ転がり、消え入りそうな声でつぶやいた。
「おまえの大切な日に、こんな事になっちまって本当にすまなかった、な」
河合の目に、一筋の光るものが流れ落ちた。
ハジメは救急車は呼んだものの、師匠を置いたままで、ライブ会場へと向かうしかなかった。
その日、行われたハジメの復帰ライブは、お笑い好きの間では伝説のライブとまで言われている。ハジメは一挙手一投足、それこそ登場から退場までつまらないところなどなかったと言うぐらいの大爆笑をかっさらい、その日のライブを終えた。
しかし、その日のヒーローであるハジメは、「用事があるんで」と言って、普段は参加する打ち上げを欠席したのを最後に、行方知れずとなった。
ライブ関係者も、テレビの関係者も、お笑い芸人を抱える事務所も、仲間の芸人たちも、ファンの面々も、皆、血眼になってこの新時代を担う爆笑王の行方を探したが、ついに彼が見つかることはなかった。
その後、ハジメがどこでどうやって暮らしているのか、知っているものは誰もいない。一時期、あれほどテレビに出まくっていたのに、「あの人は今」的な番組に取り上げられることもなく、ウィキペディアに項目があるわけでもなく、せいぜいお笑いマニアの口の端に上がるぐらいで、人々がハジメを思い返すことは、全くと言っていいほどない。
しかし、自身の再起した日であり、師匠の命日でもある日に河合の墓を訪れると、そこには師の愛したプリンが一つだけ、いつも必ずそっと置かれているという。
(了)