師弟
3
先述したように、河合は、弟子が売れないことでそいつの人生を台無しにさせてしまうのではないか、ということをとても懸念していた。自分が芸人の道を選んだのは自分の意志なのだから、いくらすさんだ生活をしようが構わない。親に泣かれ、嫁や子供にも縁がない、そんな生活をする覚悟もできている。だが、乱暴者とは言え、自分の弟子になるとまで言ってくれた男を、その道に引きずり込んでしまって良いのだろうか、河合はしばらくの間、このことがずっと気掛かりだった。
しかし、河合のその心配は、杞憂だった。
ハジメは、たまたま出演していたライブで、とあるテレビ関係者の目に止まり、弟子入りからほんの数カ月でテレビ初出演を果たした。出演させた番組側も、色物として1回だけ試しに出してみただけだったが、筋肉質な体で、滑舌が悪い上に全く要領を得ない話し方、そんなさまを、お笑いマニアが高く評価した。その数日後のライブでは、満員の客の中、ネタ対決トーナメントで優勝を飾り、トークが面白いだけではないことを存分に見せつける。その頃になると、いきのいい若手芸人がいるぞ、と業界も感づき始め、テレビもライブも出演依頼が殺到し始めた。そんなふうに一躍時の人となり、スケジュール表がびっしり埋まったハジメは、自然と河合の家に寄り付くことができなくなった。
弟子としてハジメは、河合の家で炊事や洗濯などを行っていたのだが、このせいであっという間にいなくなってしまった。しかし、河合は少し前までハジメがやっていたトイレ掃除をしながら、心のどこかで安心していた。
(取りあえず、ハジメが売れてくれて、よかった)
河合は、弟子に先を越されてしまったという考えや、俺のほうが面白いのにといった嫉妬心は全く持っていなかった。むしろ、自分が歩んでいるような、何をどうやっても売れない絶望的な状況を、ハジメには歩んでほしくないとさえ思っていた。
(このまま、俺の弟子になったことは、あいつの中で黒歴史になってくれればいい)
トイレの水洗レバーをひねり、泡に包まれた汚れが流されていくのを見ながら、河合は満足そうにうなずく。
トイレ掃除に引き続き、部屋に掃除機をかけながら、河合は録画をしておいた番組を再生した。ハジメが出演している番組である。ハジメは開始10分ほどで登場し、相変わらず要領を得ないしゃべりで爆笑をかっさらっている。河合は、思わず掃除機を止め、まじまじとハジメのトークに聞きほれていた。
「うん。面白い」
師匠だからというひいき目ではなく、本当に面白いと思う。というか、そもそも師匠らしいことは、何もしていない。
そんなふうに思っていると、ガチャリと扉を開けてハジメがやってくる。ライブやテレビ収録でなかなか来られず、10日ぶりの師匠宅への訪問だった。
「ちわっ」
ハジメは、ビニールの袋をちゃぶ台にトン、と置いてから、師匠にあいさつする。中には、コンビニで買ったプリンが10個以上も入っている。以前、プリンが好物だと、河合が何かの折に話したら、ことあるごとに買ってくるようになったのである。
「プリン、買ってきましたんで」
ハジメは、それだけを言ってドカッとちゃぶ台の一角に座り込む。
「このトーク、面白いな」
河合は素直に、自分の弟子の晴れ舞台での仕事の出来を褒め称えた。さっきまで止めていた掃除機を、再び動かしながら。座り込んだ弟子は、しばらく首をかしげながら考え込み、小さい声で言う。
「そうでもねえかな」
その返答に、自分のセンスを否定されたような気がした河合は、思わずむっとする。だが、そのこみあげてきた怒りをまずは抑えて、さらにハジメに問いかける。
「どういうところが、そうでもねえんだ?」
「…………」
そんな問いかけが来るとは思っていなかったようで、ハジメは考え込む。腕を組み、食い入るようにテレビを見て、必死に頭を回転させているのが、傍目から見てよく分かる。そうしている間に、河合は掃除機をコロコロに持ち替え、髪の毛などを取る作業に移っていた。
(少しは、師匠らしいことをしてやれただろうか)
河合は、毛を取りながら、そんなことを考える。
自分には笑いは分からない。だから、笑いを教えることはできない。でも、笑いとはなんだろう、それを示唆するような質問を、師匠として投げかけることができたんじゃないだろうか。そんなふうに思い、怒りなどすっかり忘れてコロコロしていた。
掃除が終わり、河合もちゃぶ台に身を寄せる。録画した番組はとうに終わりを告げ、別の番組が始まっていた。しかし、ハジメは腕を組んだまま考えるのを止めない。真剣そうに目を宙に向け、答えを探し求めているようだ。
(こりゃ、本気だな)
河合は、先ほどの満足な気持ちから一点、急に不安になってきた。
ハジメの中には、まだまだ笑いの理論というものが確立していない可能性が高い。そんな状態でいきなり笑いについて考えさせたら、今の笑いをおかしくしてしまう可能性もあるのではないか。ちょうど、ピッチャーがフォームを改造するときのように。そうしたら、今のハジメの快進撃もこれまでになってしまいかねない。河合はそうなることに不安を覚え、ハジメに声をかけようとする。
「おい、無理すn」
「師匠、そういうのは、やっぱテレビに出ねえとわかんねえよ」
自分の発声とほぼ同時に聞こえた、ハジメからの回答を聞き、河合は一瞬で怒りが沸点に達した。自分がテレビに出れないことを、馬鹿にされたと思ったからである。
河合は逆上し、ハジメを家から追い出した。それは、以前河合を殴ったことのあるハジメが、死を覚悟するほどの逆上っぷりだった。そして、金輪際、あの不肖の弟子を家に入れるまいと河合は心に固く誓ったのだった。