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エクスカーション 第1章 (感覚異常)

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「それにしても人間の嗅細胞の感度もなかなかのもんだ。意識に上がらなくても微細な匂いを感じ取っている」 田島にとっては専門領域である。田島は続けて話した。
「臭いの知覚と言えば、俺の息子の雄治はこの間5歳になったんだが、この冬のことだ。一緒に外出しようとして家の玄関から息子が先に出たとたん『お父さん、雪の匂いがする』って言うんや。確かに空は曇っていたけど俺には雪が降るような気配は全く感じなかった。でもそれから10分もしないうちにほんとに雪がちらついてきたんだ。子供の感覚ってすごい、と感じたね。風に乗ってやってくる雪の匂いを感じ取ったんだろうな。そもそも俺には雪の匂いなんかわからないものな。その匂いを雪の匂いだと覚えていたことにも感心したんだけど・・・ 人間の感覚は成長するにつれて高まる側面と鈍くなる側面があるけど、嗅覚なんてものは赤ちゃんや幼児の頃が一番感度が高いんだろうな、味覚とかにしてもそうだが・・・」
「そういう意味では、俺のあの時の嗅覚は幼児並みに感度が高かったということか」
「まあ、そういうことかもしれんな」

 2人が乗った車は京都市の西を流れる桂川を越えようとしていた。すっかりと陽が登った市街の向こうには大阪との境にあるポンポン山がその丸い胴体に朝日を浴びていた。
「穂高のカミナリの話で思い出したんだけど、雪の乗鞍岳での小屋の色のこと覚えているだろ?」 
岸田は嗅覚の話題から連想した色覚にかかわる山の体験に話題を変えた。
「忘れるわけないやんか。遭難したんやから」
「うん、確かにあれは遭難だった。4月なのに猛吹雪になるんだものなあ。運のいい生還物語だな。4月はまだ冬山だと厳しく教え込まれた」
2人は4月の3連休を使って北アルプスの乗鞍岳に登った。信州側の乗鞍高原から入り、営業を終了したスキーゲレンデを遡り、その日のうちに剣が峰山頂を踏んだ。昼前からの行動なのでかなりの強硬な行程だった。山頂手前から風が強くなりガスも濃くなった。視界はみるみる失われていった。山頂を早々に引き上げた2人は肩の小屋を少し下ったところでホワイトアウトに陥ってしまった。ガスは雪に変わり真横から激しく2人を打ちつけ始めた。気温も急激に下がり厳寒期さながらに凍てついた。降り積もった雪は強風に煽られ氷の飛礫となって岸田と田島の顔を容赦なく打ちつける。周囲を目視するだけでなく視線を上げることすらできない状況だった。2人は風雪を避けるため肩の小屋に引き返そうと斜面を登ろうとするのだが、四方から吹きあたる氷の飛礫を避けるうちに斜面の上下さえ分からなくなってしまっていた。しばらく互いを見失わないように注意しながら懸命に小屋を探し回ったものの小屋にはたどり着けなかった。田島は岸田に両手で大きくバツを作って見せ、背負っていたザックを下した。岸田は田島の意図を理解した。ビバークだ。田島はザックからツェルト(簡易テント)を出すと風に飛ばされないように慎重に広げながら岸田にも端を持たせた。そして、2人でツェルトにもぐりこんだ。
「小屋はあきらめよう。ここで止むのを待つ方が賢明や」 田島は岸田に同意を求める。岸田は普段からどんな状況にも動じることのない田島の判断に大きく頷いた。風雪は翌日まで続いた。2人は薄い繊維一枚のツェルトの中でダウンの上着を羽織り身を寄せ合って一晩を過ごした。あまりの冷気に2人は眠るどころではなかった。うっすらと外に光の気配が感じられるようになってからも風雪は止まない。昼前幾分風が弱まった感があったので2人はツェルトをたたむと、中腹にある位ヶ原山荘に下ることに決めた。上部の肩の小屋に戻るより有人の山荘の下る方が得策だと考えたからである。しかし、視界は開けることはなかった。2人はアイスバーンになった斜面を下り、位ヶ原だと思われる台地に下ったのだが、そこでまたホワイトアウトとなった。ツェルトをまた被って天候の回復を待つか、とにかく下って山荘を探すか迷った。岸田は停滞を田島に訴えたが田島は山荘はもう近くのはずだからもう少し探そうと言ってコンパスを出して方向の見当をつけようとする。こんな状況ではコンパスはさして役立たない。今2人がいる場所さえ分かっていないのだから。ただ、台地にいるとすれば北側の谷筋に下れば山荘に行き着けるはずだと考えた。岸田はかなり精神的に消耗していた。一睡もせず、手足の指は冷気で感覚は薄れ、空腹で体に熱を生まない。低体温症が意欲を無残に削いでいくのであった。岸田は田島に頼らざるを得ない。震える身体を気力で動かし田島の後を追った。地面はアイスバーンから新雪の積雪に変わっていた。2人は長い間、膝まで沈む雪の中を歩いた。2人の歩いた後のトレースは新雪がすぐに埋めていく。途中同じ場所をぐるぐると回っているんじゃないかと疑いを持ちながらも岸田は田島の姿を見失わぬよう必死で後を歩いた。時間はすでに夕方になっていただろうか。谷筋と思われる吹き溜まりをふらつきながらラッセルしていた岸田は視線の先に屋根らしき赤色が見えた。岸田はどこにそんな力が残っていたのかと思われるぐらいの声で田島の名を呼んだ。
「タジマァ~、あれ!」 田島は驚いて岸田を振り返った。そして岸田の指さす先に視線を移して叫んだ。
「おお~ 、山荘だ! 着いたあ~」 2人の消耗しきった身体には希望の熱が沸き上がった。
 「あの時は不思議だったな。あれだけ雪が降り積もっているんだから屋根の赤なんて見えるはずがないんだよな。でもはっきりと赤い屋根が見えた。強い願望っていうのは頭の中に都合のいい視覚世界を作ってしまうんだな。初めての幻視体験だったよ。田島にも見えたんだから、極限の状態だと幻も共有してしまうってことだ。幻の伝染と言った方がいいか?・・・」
岸田は車を運転しながら目の前の道路ではなく、より遠くを見るかのように山の思い出を語った。
「ああ、おまえはあの時『山荘』だとは言わなかったのに、ストックで指し示した先にはちゃんと赤い屋根が見えた。全く興味深い現象だったな、あれは。それに、あの赤を目指して下りるとちゃんと山荘があったんだから。全く不思議な体験だった。山荘の屋根には1メートルは積もっていたかな、雪が。赤色なんかどこにも見えるはずがない。まあ、なんと言うか幻覚と第六感的なものが重なったことで命拾いしたわけだ」
「まったくだ、幻覚が救ってくれたようなものだ」 岸田は続けて話すことにためらうかのように少し間を置いたが、すぐに踏ん切りをつけて続けた。「田島、あの時俺は言わなかったんだけど、あの時俺たちとは別にもう一人あそこに居たんだ。俺がストックで赤い屋根をさしただろう。その方向にもう一人登山者がいた。田島の10メートル先をずっと歩いていたんだ」
「おいおい、まじかよそれ!」
「ああ、まじ」
「サードマンっていうやつか? たった一日の遭難でサードマンの出現ってか?」
「俺もあとで調べて、サードマンっていう極限状態に現れる幻覚があるって知ったよ」
「お前、相当やられていたんやな」
「相当まいっていたよ。でも、それが助けてくれたようにも思ったものだ」
「それって、幻覚のことか?」