エクスカーション 第1章 (感覚異常)
「ああ、幻覚のこと。でも、あの時は現実でもあった。実際小屋があったんだから」
「科学者でもある眼科医のお前がオカルト的な幻視に助けられた。皮肉なもんやな」と、田島は微笑みながら岸田の横顔に向かって言った。
すると岸田は何かに思い至ったかのように言った。
「あの加藤という俺の患者のことだけど、あの人には俺たちの見たあの赤さえ見えないんだ。色を失った人の幻視には色がないのかな? 夢はどうだろう、色付きの夢の色も感じないんだろうか?」
「どうなんだろう? しかし、俺たちは丸一日以上色のない世界にいたよな。白い闇ともいえる中にあの屋根の赤はまったく幻想的な赤だった。俺は色付きの夢は見たことないけど夢に見る色ってあんな感じなんやろうか? 幻想的な赤いクオリアってとこか?」
「クオリアね!」 岸田もモノトーンの世界に今となってはあやしくもある赤を思い出しながらもう一度つぶやいた。「クオリアね!」
岸田は、日本語で感覚質や感覚意識体験と表されるクオリアというものの理解に悩ましいものを感じていた。岸田にとっては感覚質にしても感覚意識体験にしてもわかるようでわかりにくい言葉であり感覚(内的現象)であったからである。
2人が乗った車のすぐ右隣りを大型のトラックが追い越していった。一瞬風圧で押された車体は次の瞬間トラックの過ぎた車線に吸い寄せられ、その重力的な変化は2人の三半規管と偏桃体を刺激した。岸田は瞬時にハンドルを握る力を強めた。ほっと息をついた岸田は田島に話しかけた。
「幻視じゃなく幻聴の方だけど、山に登っている時、頭の中で同じ音楽が繰り返し鳴って止まないことはないか?」
「あるある。あれは、イヤーワームって名前がついてる」
「イヤーワームねえ・・・。耳虫ってことか?」
「うん、そやな」
「わかるネーミングだな。それで、あれは一種の幻聴になるのかな?」
「幻聴ではない。幻聴は当人にとってもっとリアルなものだろう。聞こえる人には実際に『聞こえている』っていうしね。山でのあれは単調な繰り返し行為が続くことで頭の内部に無意識のうちに起こる自己刺激かもしれん。けど、あれは山に限ったことではなくて、日常生活のいろんな場面で起こるようだし機序についてはよくわからん」
「そうか・・・ でも、山でのが自己刺激だとすると違う曲が次々と出てきてもよさそうなのに。まるでテープをループ再生したように同じ曲が延々と続くだろ? やめようと思ってもなかなか止まらない」
「誤作動的に脳の一部の回路にループ再生のスイッチが入るんだろう」
「困った回路だな・・・」
「ああ、ワームだからな」
車は大阪の高槻を過ぎ吹田に入っていた。伊丹はもう間もなくだ。早朝ではあったがさすがにこのあたりまで来ると車が多くなっていた。走行車が多いのに加え道路の両側に広がる都会の景観は、日ごろから近江平野を望む道路での運転になじんでいる岸田により運転の緊張を高めさせるものがあった。岸田は標識と車線にそれまで以上に注意を払いながら運転し無事空港近くの駐車場に着いた。
6
公園に植えられた欅はこの公園が出来てから長い年月が経つことを語るに十分だった。幹回りが2人でないと届かぬものが歩道わきに並び独特の樹形を表す気持ちの良い枝ぶりが熱気が上がる地面に影を作っていた。
「加藤さん、あと、こことあそこの窪み頼んます」
「了解です」
加藤は砂を入れたバケツを身を反らしながら持ち上げ同僚の清水に答えた。自然公園内にある球技場では、昨日まで少年のサッカー大会が開催されピッチはかなり荒れた状態になっていた。芝生の管理のプロである清水がピッチ内を点検して回り、加藤は清水の指示のもと養生用の砂を芝の削れに撒いていく。加藤は色がわからないことは職場の誰にも言っていなかった。急な症状であったため奇病か何かのようにとらえられるのも嫌だったし、何より一時的なものでこうして自然の中で仕事しているうちに回復するのじゃないかと考えており、あえて言うまでもないと思っていた。実際仕事にはさして支障はなかった。何しろ物はちゃんと見えているんだし、逆に以前よりも物のコントラストがはっきりと見えるという利点もあった。この点は地面の影が穴ぼこに見えてドキリとすることを除いてのことなのだが。夏の青空、入道雲、濃い緑はすべて白と灰色の濃淡の世界である。そのせいか暑さが温度計の数値よりも低く感じられるようだ。困ることと言えば自動車や作業者のランプの点滅が見にくいことだった。通勤や公園内での車を使った作業の時は注意を怠れなかった。見逃すと事故につながりかねない。信号も判別しにくいため通勤は使っていた自動車を自転車に変えて、なるべく信号と車の少ない道を選んで通った。
加藤は酒が好きだった。会社勤めの現役時代からほぼ毎日のように帰宅すると飲んだ。公園での仕事に変わってからは、特に夏場の屋外の作業で絞り出した分をビールで補給するときが幸せを感じる時間であった。だが、白黒の世界となった今では、ビールも灰色で何か違う飲み物のような味がする。料理にも色がないので食欲が湧かない。黒いトマトは食べてもトマトの味がしない。物の味は視覚でも味わっていたのかといかに自分の味覚が頼りなく曖昧なものだったのかと思うのであった。人の肌も灰色である。なんとなく人との距離をそれまでより取りがちになっていた。妻との距離にもそれを自覚するようになった。ただ、医師の「何かのストレスによる一過性のものかもしれません」という一言に期待を寄せることで待つことしかないと自分に言い聞かせるのであった。
作品名:エクスカーション 第1章 (感覚異常) 作家名:ひろし63