エクスカーション 第1章 (感覚異常)
低い音が聞こえなくなってすでに10日を過ぎていた。玲子は課の上司たちはじめデスクを並べる同僚には耳の聞こえが悪くなっていることを伝えていた。伝えていなければ低い声の人の指示や伝言が聞こえないので、相手に不快感を与えたり、人によっては怒らせてしまうからである。旅行から帰って4日からの勤務では、玲子自身の耳の聞こえの問題よりも周囲の人の反応に神経をとがらせねばならず疲弊した。男の係長が急に目の前に来て顔を覗き込むようにして怒られたのには、事が分からぬ身にとってどのようにリアクションすべきなのか戸惑い、呆然とするのであった。隣の2年先輩の女性の同僚が助け舟を出してくれた。「笠木さん、田中係長はさっきから何度もあなたを呼んでいたのよ! よっぽどその資料に集中してたのね」と対面する2人の横から割り入るように玲子のデスクの資料に手を伸ばしながら言った。
「すみません。あの~聞こえなかったものですから・・・」 玲子は身を縮めるようにして係長に詫びた。隣の女性同僚の声はきちんとと聞こえたのである。係長の怒らせた件の前にも男性職員から怪訝な顔を向けられたことがあった玲子はこの件を機に課の職員たちに対して耳の異常のことを打ち明けた。聴覚に異常をきたしていることがわかれば彼女を訝ったり怒声を浴びせる者もいなくなった。周囲は理解を示し、男性職員などは話しかける時にメモ用紙に要件を書いて示してくれたり、他の女性職員たちも聞き取りにくい男性職員の中継ぎをしてくれるようにもなった。玲子には周囲の配慮が有難く嬉しかった。しかし、聞こえの状態が一向によくならないことと治療がなされない状況に暗い気持ちを抱えたままであった。
玲子はもう少し様子をみましょうという医師の言葉に落胆し、そして医師への不信もいだいた。MRIまで撮ったのに何の打つべき手立てもないというのだから無理もない。ただ、まったく聞こえないわけではなかったことが救いだった。医師は次回も症状が変わっていなければステロイド剤を試してみましょうと言ったがそれも不安と言えば不安である。玲子の重い気持ちは足元から立ち上る蒸気の熱気のなかでさらに重さを増していった。
玲子は自宅に帰ると念のためにと医師から止められていた大音量で好きなレッド・ツエッペリンを聞いてみた。CDは父親の物で玲子のロック好きは父親譲りのため、好みは70年代のバンドのものが多かった。玲子の耳に届く音はバスドラやベースによる重低音はカットされ、ロバート・プラントの甲高い声とジミー・ペイジのギター間奏だけが強調された違うバンドの音楽のようであった。玲子の身体には重低音が発する空気の振動だけがかすかに伝わってきた。
突然、後方のドアをノックする音が聞こえ振り向くと、ドアを開けた母親が「もう少しボリュウームを下げなさい!」 と甲高い声で言った。一瞬母の声がプラントの声に聞こえた。
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7月15日月曜日の夕方、岸田は待ちわびたように医局に戻ってきた田島に声をかけた。
「例の患者、MRI撮ったんだろう? なにかあったか?」
迫るような岸田のいきなりの呼びかけに、そう急かすなとばかりに部屋の隅にあるソファーを目でさしながら田島は岸田から離れてソファーに座った。そして、今度は手で対面のソファーを指し示しながら岸田を促した。
「あの女性患者のことだろ。それが何も出ないんだ。俺が見る限り中耳、内耳、側頭葉の聴覚野、異常なしや。出血、腫瘍、萎縮らしきものも認められなかった」
「そうか・・・俺の患者と一緒か・・・ 俺の方は60歳も越えているしアルコールも結構長く飲んでいるからだろう、多少の萎縮は見られるが少なくとも視覚野に関する箇所に見えが左右されるような異常は認めない。俺の診たてに見逃しがあるのかもしれんが・・・ でそっちは次の手は考えるのか?」
「いやとりあえずあと1週間様子をみてもらうことにしたよ。難聴の場合できるだけ早く手を打った方がいいんだけど、あの女性の場合は対処の判断がなんとも悩ましいところや。1週間して変わりがなかったらステロイドを検討しようと思っているんやけど・・・ 岸田の方は?」
「俺の方は全く打つ手なしってところだな」 岸田は顔をしかめながら答えた。そして続けた。
「2人が発症した前日、偶然にも北海道で同じ日に同じ山に登っている。視覚と聴覚と感覚は違えども通常は起こり難い特異な症状だ。登山に何か原因は考えられないかな・・・ちょっと医者らしくない着想かもしれんけど、ちょっと引っかかるんだな・・・」
「う~ん、それはないんとちがうか。登山が感覚異常の原因だとするとよほど高所とかでないと考えにくい。樽前山ってたかだか標高1000メートルレベルの山だろ?」 田島は冷静に岸田の考えを否定した。岸田はそれでも何か言葉ではうまく言い表せない勘のような引っかかりを覚えるのだった。そして、吐き出すように返した。
「偶然にしてはなあ~!」
「同じ北海道の山に同じ滋賀県の人間が同じ日に登ったというのは確かにできすぎた偶然だ。しかし、そういうこともないわけではないだろう。同県の2人だし、同じ旅行会社のプランを利用した可能性もあるんだし、そうすれば宿の設定なんかもかぶることがあるのと違うか?」
「う~ん、考えられないことではないかもしれんが・・・。それにしても治療の手立てが考えられないのは困ったものだ。原因不明、検査も異常なし、ではなあ~。どこかに紹介する方がいいのかも、とも考えるんだが・・・」
「俺の方もや。ステロイドは多分効かんと思う。部長に相談してみたんだが、部長にしても彼女のような病状のケースは経験がないと言うんだ。もう少し様子を見て変わらなければ部長の出身の大学病院の先輩につないでみてもいい、とは言ってくれているんだが・・・。 お前の方は部長に話したのか?」 田島は少し心配そうに岸田に言った。
「いや、相談してみるべきか、とは思ったんだが・・・まだだ」
「そうか、まだか。 まだしっくりいってないんだな。部長と」
「俺が意識過多な状態になっているからだとは思うんだが・・・ どうもまだ素直に相談できないんだ」
「半年前の患者の件、まだひきずっているのか?」
半年前の岸田が主治医だった入院患者への診たてと治療方針について、相談した部長と岸田の間のちょっとした見解の違いがもとで口論となり部長を怒らせてしまった、という1件が以後微妙に二人の距離を広げてしまった。後日岸田が詫びることで事の解消は計られたはずであったものの、部長に対して感情的な言動をとってしまったことに対する自省をうまく自己処理できないことでのもやもや感を岸田は残したままであったのである。
少し沈んだ雰囲気を醸す岸田の顔に察した田島は右膝をポンと叩き、続けて言った。
「話は変わるけど、8月1日からの穂高の件やけどな」
「ああ」 岸田は我に返るかのように上体を起こしながら普段より高い声で答えた時、田島の右隣りの座面に積み置かれた何部かの新聞紙が目に入った。
「西穂から奥穂のコース、結構シビアやろ。ガレ場のアップダウンが続くリスキーな長丁場だ。行く前に一日足慣らしをしておいた方がいいかな、と思うんや。今度の土曜日、比良山でも行かへんか?」
作品名:エクスカーション 第1章 (感覚異常) 作家名:ひろし63