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エクスカーション 第1章 (感覚異常)

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「確かに若い女性だしヒステリー性難聴というものも考えられないこともないんだけど、あの患者が詐聴を訴えているようには思えないんだよな。推測するに、ABRで明らかな異常がないということは外耳からの振動が内耳でちゃんと活動電位に変換されて脳幹に伝わっているということだし。だから脳幹から先のルート上もしくは聴覚処理の脳領域に何らかの問題が生じているんじゃないかと思うんだ。とりあえず様子を見てもらって来週MRIを撮ることにしたよ」
「ところで、おまえの声は聞こえていたのか?」
「ああ、このとおり俺の声は高めやからな。部分的に聞き取りにくいところもあったようやけど・・・」
「それともう一つ、突然というのはいつからなんだ?」 岸田は引っ掛かりのあった突然性について具体的に問った。
「先週のことらしい。4日の朝だ。朝起きて朝食を父親と一緒に食べようとしている時、父親が何か言っているようなんだが声が聞こえないということで異常に気が付いたらしい」
「4日ねえ・・・7月4日の朝・・・」岸田は7月4日という日付に脳の薄皮のすぐ下に埋もれていた符号が浮かび高まる感覚を覚えた。そしてもう一度声に出した。
「7月4日・・・朝起きたら・・・」
岸田のもどかしさを察したかのように田島は患者からの情報を細かに話し始めた。
「7月3日まで5日ほど北海道を旅行していたらしいんだ。最終日の3日は午前中に支笏湖にある山に登って、午後の飛行機で伊丹に着いて滋賀まで帰ってきたらしい。それまでは異常はなかったようで一晩寝て朝起きると、ということだ」
田島の話が終わらぬうちに岸田の頭の中の薄皮のすぐ下まで上がってきていたものが一気に皮を突き破ってはじけた。
「7月3日水曜日、支笏湖の山!」
あまりの大きな岸田の声に田島は上半身を後方に反らし、浅掛けだった腰はソファーの座面を前方に滑り落ちそうになった。幸いに遅い時間でもあったので食堂の休憩コーナーには2人だけで、岸田のやや上擦った大きな声を聞いたのは田島だけだった。
「おいおい、どうした? コーヒーがこぼれたやろが」 ソファーの奥に尻を引いて手に持ったコーヒーの紙コップを前に差し出すような格好をした田島が驚きと怒りが混ざった眼差しで岸田を見つめた。
「すまん、すまん。その患者支笏湖の山を登ったと言ったよな。樽前山という山じゃなかったか?」 岸田は日付のことは後回しにして、まずは山の確認をしようと思った。
「たしか・・・そんな名前だったと思う。タル・・何とか山と言っていたな。火山らしい、子供でも登れるやさしい山で1時間ぐらいで登れたと言っていた」
「それは間違いなく樽前山だな。7月3日に登って翌日4日の朝に聴覚異常が起きたんだな! 一緒だ!」
「何が? 何が一緒なんや? もったいぶらずに言えよ!」 田島は岸田のひらめきとは裏腹に事がわからないのに加え岸田の意識が自分に向いていない不快を感じながらももう一度岸田に問った。
「7月3日、樽前山がどうした?」
「先週、俺の外来に朝起きてみると昨日まで問題なく見えていた色が見えなくなっていたという男の患者が受診してきたんだ。その患者もある日突然色を失った。それも、田島の患者と同じ7月3日に北海道の樽前山に登っている。偶然にしてはできすぎだ」
「同じ日に同じ山に登った2人が、感覚こそ違うものの翌日に一部の受容に障害が起きたということか! それで、その患者はどうした?」
「いくつかの色覚検査をして色が見えないことは確認した。眼球、網膜にも異常がなくて後頭葉の視覚野の一領域に何かが起こっていると考えているんだ。俺は色が全く見えない患者を診たのは初めてだが、視覚前野に問題があるんじゃないかと推測している。V4と言っている領域だ。明日、MRIを撮ることにしている」
「そうか・・・ それにしても偶然の一致やな」
「奇妙だ、なんかこう怖さというか不気味さというか・・・」
「不気味? また、おまえの引っかかり病やな。相変わらずの神経質だ。些細な事でも引っかかるといつまでも引きずられるよな、おまえは。奇妙は奇妙だが原因はほかに別々にあるかもしれん。とにかく2人ともMRIでの結果を診てから考えてみようや」 田島もできすぎた偶然の奇妙さに感じるところはないわけではなかったが、持ち前の割り切りの良さを発揮して岸田に返すのであった。そして、ぬるくなったコーヒーの残りを一気に飲み干すと、左手首の腕時計を見て慌てた。
「いかん! 俺カンファレンスやったわ!」 立ち上がった田島は休憩コーナーから出ると振り返り岸田に聞いた。
「来月は穂高縦走やな! 細かい日程は近いうちにな」
互いの患者の奇妙な一致から頭が離れない岸田は、自分から言い出した穂高縦走のことをすっかり忘れていた。
「ええ? ああ・・・近いうちに・・・」 なんとも頼りない返事であった。
「よっしゃそれで決まり!」 田島はそう言って小走りで食堂を出て行った。岸田はその後ろ姿を見た後腕時計に目をやった。岸田もカンファレンスの時間はすでに15分も過ぎていた。慌てて食堂を飛び出した岸田は上階にあるカンファレンス室に駆け上がった。



  3
 
 朝から降り続いていた雨が夕方になってようやくやみ、ビルとビルの間にある狭い空に青みが戻ると、次第に日差しが差し込むようになった。そしてそれは水分をたっぷりと含んだ空気を瞬く間に熱していった。笠木玲子は路上の蒸し暑さに耐えがたい不快を感じながら勤める事務機のメンテナンス会社から最寄り駅である草津駅への歩道を歩いていた。梅雨のない冷涼な北海道から梅雨さ中の滋賀に帰った玲子にとっては温度と湿度の受容閾値がかなり下がっていたのだろう。その不快感は耐え難いものであった。玲子の会社ではお盆休暇というものがない。その代わり春から秋にかけて一週間程度の連休を取得できることになっている。玲子は一人旅が趣味で今年は梅雨の時期に北海道をめぐる旅行をしようと計画し6月末から7月3日までの7日間の休暇を取った。一緒に行く友人がいないというわけではないが、玲子は気ままな一人旅を好んだ。友人と一緒であるより、興味の対象やペース、予定の変更など気ままに気遣いなく旅をする方が性分に合っていたようである。あまり友達や知人と喋る方ではないし、何より独りが寂しいと感じることはなかった。今回は北海道の山にも登ってみたいという思惑もあり、初心者でも比較的登りやすい大雪山の旭岳と黒岳を登った。玲子は大学時代から地元滋賀県の山に登るようになった。友人に誘われて伊吹山を登ったことがきっかけで、以後、県内の山に友人とともに、また時には単独でも出かけるようになった。北海道では大雪の2つの山を登った後、旅の最終日には予定になかった樽前山を登った。