エクスカーション 第1章 (感覚異常)
「まあ、奥穂まででもいいんだが・・・」
「穂高か! 大学以来やな」
「そうだ。穂高は何度登ったかな? でも西穂からのコースは行ってないだろう。涸沢や岳沢からは入ったが西穂の岩稜ルートは行かずじまいだし、体力のあるうちにと思ったんだ」
「ええぞ。俺も初めてのところやし、まだ体力も大丈夫や。時間と体力の状況で奥穂までとするか、北穂まで縦走するかその時に決めたらいいしな」 田島は、岸田の提案したプランに同意した。
岸田と田島は同じ医科大学の同級生で、ともにワンダーフォーゲル部出身であった。大学時代は厳冬期を除きよくアルプスや八ヶ岳などを歩いた仲だ。大学卒業後はともに大学関連の総合病院に勤め、岸田は眼科、田島は耳鼻咽喉科の医師として勤めて10年が経つ。2人は休日の少ない過酷ともいえる勤務を担いながらも年に1~2度は山行を共にしてきた。昨年の夏には中央アルプスの空木岳から駒ケ岳への縦走をしている。休日が少ない中、2泊2日のプランで、前夜発、車中泊の後、空木岳への長い尾根道を登り山頂へ、木曽殿小屋で一泊し、2日目は駒ケ岳まで縦走の後、伊那前岳から登山口の駒ケ根に下山するという強行日程であった。2人は30代半ば。まだまだ長距離の行程も苦にはしなかった。学生時代の山での鍛錬のたまものなのであろう。特に田島は性格的に神経の太さというか肝のすわりがあり、どんな長丁場でも弱音を吐くことはなく岩場の難所などでも怖がらなかった。そして、テント泊であろうがツェルトでのビバークであろうが、どこでもどんな状況でも眠ることが出来た。脚力と体力では引けを取らない岸田ではあったが、こうした神経の強さは持ち合わせない。岸田は田島のそうした面から一目を置いてきた。
2人は鯖の煮つけ定食を食べ終え、食堂の片隅にある休憩所のソファーに移った。自動販売機で購入したコーヒーを片手に岸田は何気なく田島に問いかけた。
「で、手間がかかった最後の患者さんはどうだった?」
「ああ、難聴と言えば難聴なんやけどな・・・。20代の女性なんだが、低音だけが聞こえないんだ」
「低音だけ?」
「うん。それも突然に。朝起きたら聞こえなくなっていた、ということや」
「ほお~ 普通聞こえが悪くなるのは高音からだろ? まあ、それは高齢者の場合だろうけど・・・」
「ああ、高齢者の場合はそうやけど、一般的にみても低い音だけが聞こえなくなるというのはあまりないんだ。例外的にメニエルの場合にはあるんだけど今日の患者はメニエルでもなさそうだし・・・。 普通、人間の認識できる周波数は20から2万ヘルツぐらいだけど、この女性の検査ではだいたい100ヘルツより低い音が感知できないようなんや」
「へえ~ 100ヘルツねえ・・・ 100ヘルツ以上は問題はないのか?」
「100ヘルツ以上は問題なく聞こえてる。岸田も知ってるとおり難聴は30デシベルあたりを基準にしてそれ以下をさすんやけど、それは音の大きさの感知で計っている。その女性の場合、音の大きさの問題じゃなくて高低の感度の問題なんや。だからオージオメーターで純音聴力検査を細かくしてみたんだが、ちょうど100ヘルツから下が聞こえていない。それでABR(聴性脳幹反応)測定までやって時間がかかったというわけだ」
田島はあらためて女性患者の症状に納得のいかない疑問を表情に表しながら岸田に答えた。
「で、ABRの結果はどうだったんだ?」
「それが、断言はできんけどまず問題はなさそうなんだ。脳幹の反応は若干の不安定はあるもののノーマルな範囲だった」 田島はより疑問を深めるかのように眉間にしわを寄せながら答えた。
「ちょっと興味がある患者だなあ。それでその患者は後どんなことを訴えてるんだ?」
「まず、男の人の声が聞き取れない場合があるらしい。父親の声や会社でも人によって声が聞こえないと言っている。面と向かって話しかけられても何を言っているのかわからないので何度も聞き返したり、戸惑ったりしているうちに相手を怒らせてしまうのだそうだ。男の声すべてということじゃないので、それがまたたちが悪くて対人印象を悪くしているようで落ち込んでいるんだと。まあ、そりゃそうやろな。この人とは難なく会話できて、あの人とは成り立たない、というか聞こえない。それでは周囲の人は不審に思うのは無理もない。そのほか、音楽も低音が聞こえない。ロックが好きだと言ってたけど、ベースやドラムの低い音域が聞こえないので迫力がなくて味気ないそうや」
「ふ~ん、ヘッドホーンの音量とかライブの大音量とかの原因じゃないのか?」
「それも聞いてはみたんやけど、聞こえなくなった直前にそんなことはなかったと言ってる。よくジェット機の爆音ぐらいと言われるけど、130デシベルほどの音だと瞬間的に強い痛みとともに内耳の有毛細胞を痛めてしまう。100デシベル程度でも聞く時間が長ければ長いほど痛めやすい。でもそうした場合の難聴は全般的な音に対して起こるし、耳鳴りなどの症状も付随する。彼女の場合症状の表れ方は全く違う」
「話飛ぶけど、ロックと言えばエリック・クラプトンが耳鳴りに悩まされていたって、何かで読んだことがある」岸田は自身も好きなロックの話題をはさんだ。
「ああ、俺も知ってるよ。ロックのミュージシャンには多いらしい。ボブ・ディランなんかもそうらしい。でも意外とクラシックの演奏者にも多いらしい。アンプの大音量だけやなく楽器の生音でもなる人はなる」
岸田は田島の話を聞きながら何かしら感じる引っ掛かりから質問を続けた。
「その女性、突然低音が聞こえなくなったと言ったけど、これといったエピソードがなくて突然難聴になるというようなことは稀だとしても起こり得ることなのか?」
田島はよく聞いてくれたとばかりにそれまでより目を大きく見開きながら右手の人差し指で岸田をさしながら答えた。
「耳鳴りは、これと言ったエピソードがなくても起こる。厄介だ、耳鳴りは。内耳と中枢の絡みで起こっていることが多いうえに情動のエリアも絡んでくるからその分治療も難しい。精神科の領域も含めて考えないといけないからな。でも、ある日突然100デシベル以下の音が聞こえなくなる、というようなことが起こると思うか? 頭をどこかに打ち付けたとか発熱があったとか、そういったエピソードが全くなく、それまで問題なく聞こえていた音が突然聞こえなくなる。それもきっかり100デシベル以下の低音だけ。不思議でならんよ。患者を診ている限り嘘を言っているようにはとても思えないし・・・」
「ちなみに頭部の打撲などの場合はどうなる?」
「強い衝撃とか軽くても繰り返す衝撃で内耳震盪を起こすと難聴、耳鳴り、めまいといった症状が出る」
「内耳震盪か・・・。 そうだ、さっき精神科領域って話が出たけど、ヒステリーとかは考えられないのか?」
作品名:エクスカーション 第1章 (感覚異常) 作家名:ひろし63