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端数報告6

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ポケットに50億円


 
長谷川町子さんが自伝である『サザエさんうちあけ話』に、
 
画像:サザエさんうちあけ話日本画を描いて進駐軍に売った話 アフェリエイト:サザエさんうちあけ話
 
こう描いているところがある。こう書いているだけで詳細は不明だが、『サザエさん』の連載がまずは地方紙で始まったのが敗戦の翌年である1946年。これはその少し前のことらしい。
 
進駐軍の者らは日本画を欲しがっていた。描けば売れた、というのは聞けば誰でもが、
「なるほど、そうだろうな」
と思う話だろう。これを見るによく売れたのは、和服姿の女を描いたものだったのが察せられる。
 
これも「なるほど、そうだろうな」という話だろう。つまりたとえば、
 
アフェリエイト:マツオヒロミ百貨店ワルツ
 
こんな感じか。果たして今の外人さんは、これを喜んで求めるだろうか。わからないけど、いそうな気がする。おれだって、ちょっとレジには持っていきにくい感じだけれどどうせ本屋の店員はおれを知ってるわけじゃあるまい。
 
だからまあ、うーん、というところだけれどそれはさておき、他にはどんな絵が売れたのだろう。歌麿の春画みたいなものか。まあ売れたかもしれないけれど、高い値段で売れたのかどうか。
 
セーチョーならば言うかもしれない。そりゃあもちろん売れただろう。ウタマロだぞ。壱萬圓でも弐萬圓でもGIは買っていったに違いないヨと。つまり今の百万円とか2百万とかいう話になるが、買っていったに違いないと。セーチョーならばそう言うかもしれないけれど、あなたはどう思うだろうか。
 
果たして鑑定の結果は? ジャカジャン! と『開運!なんでも鑑定団』のように訊こう。もちろん、おれは「それはないだろ」と考える。セーチョーと違っておれは当時を知るわけじゃないが、でも、ないだろ。それはまあ、外人さんにウタマロを見せたら、
「How much」
と言うかもしれないけれど、長谷川姉妹の絵よりも高い値段で買うかどうかは疑問と思う。
 
和服姿の女の絵なら故郷の家族への土産になろうし、いつか自分の子や孫に見せ、話すタネにもなるだろう。だがウタマロはそうならない。買うとしても、高校時代にツルんだ友人どもにでも見せるために買うんじゃないのか。んなもんに出す金額はおのずと限られてくるんじゃないのか。
 
と、おれは思うわけだ。前に岡田斗司夫・著『オタク学入門』という本から、
 
   *
 
 80年代半ば、それまで存在しなかった店舗・ビデオレンタル店が日本中に氾濫した。それと同時にオリジナルビデオアニメブームが起きた頃のことだ。それまでアニメなど企画したこともない会社まで次々とオリジナルアニメを作りはじめた。
 東芝EMIという会社も、9000万円という大金をかけて60分のオリジナルアニメ、『ザ・ヒューマノイド』を作った。同じ頃、僕は『トップをねらえ!』というオリジナルアニメを45分で1巻あたり2500万円で作った。
 結果、『ザ・ヒューマノイド』は2000本しか売れず、『トップをねらえ!』は1巻あたり3万本以上も売れた。そのとき東芝EMIの担当に「なぜ『トップをねらえ!』は売れて『ザ・ヒューマノイド』は売れないのだ?」と聞かれたことがある。
 僕は、そのときは「見たらわかるじゃないか」としか説明のしようがなかった。
 
画像:オタク学入門190ページ オタク学入門表紙
 
こんな話を引用した。覚えてるかな。今ふたたび引いたけれど、しかし今度は別に春画の話ではない。女を描いた絵の他に、進駐軍の者達はどんな日本画を求めたろうか。
 
という話だ。風景画なら、たとえば、
 
画像:この世界の片隅に白波の絵 アフェリエイト:この世界の片隅に
 
こんなのはどうだろう。外人さんは高い値をこれに付けて買っただろうか。
 
わからん。これは大体が、風景画でなく日本人好みの印象画というものだ。しかしとにかく、今回はそんな話をしたい。赤瀬川原平さんが『ゼロ発信』という本に、
【ポケットに50億円】
という話を書いている。こんな画を見せ、
 
画像:ゼロ発信ポケットに50億円
 
展覧会では50億くらいのカネを自分が持ってるつもりで絵を見ろ。自分で絵に値を付けろ。それを買ってもいいと思うか、買うとしたらいくら出すか、自分で考え自分で決めろ。もちろん本当に買うわけじゃないが、そういう見方をすることで、
 
《思想やその他の知識で見るのとは違って自分の本心があらわれてくる》
 
と書いている。他人の評価や他人の付けた値段に頼って絵を見ても、絵を見る力なんかつかない、というわけだ。
 
別に絵に限らんだろう。たとえばこのブ男が、
 
画像:山田朗アセトンシアンヒドリン
 
言うことは全部他人の言葉だ。帝銀事件について言われるお決まりの話を並べて、
「というふうに言われています」
「というふうに想像されています」
という論法を使うだけ。これを田辺誠一が、
 
「なるほど、そうですよね」
 
画像:田辺誠一アセトンシアンヒドリン
 
と簡単に受け入れていく。アセトンシアンヒドリンは本当に遅効性なのか。本当に日本人が開発した暗殺用の毒なのか――そんな疑問を持つことはない。ビンにピペットを挿し込んで上の油だけを取る。それは本当に練習すれば危険なくできるようになることなのか。
 
そんな疑いを持つことはない。
【戦争中に大陸で何千人もそのやり方で殺していたというふうに言われている】
などという話を、
「なるほど、それなら」
と鵜呑みにする。鞄の中でビンが揺れたら毒と油が一時的に混じり合うことになるんじゃないのか――そんな程度の疑問すら頭に思い浮かばない。
 
自分の頭でものを考えてないからだ。【GHQの実験】という話があるのは知っていて、検証を始める前から【そういうことにせねばならない】と決め込んでいるからだ。みんなが言ってることらしいからそれが正しいに決まっている。考えるな。感じろ。平沢貞通は無実だと感じろ――初めからそんな構えになっているから、「50億だ」と言われて50億持ってたら、本当にその価値があるのか考えずポンと差し出してしまう。
 
帝銀事件では誰もがそうなる。が、とにかく絵の話だ。『にっぽん!歴史鑑定』の番組は、平沢が戦争前に描いた絵を出す。
 
画像:平沢の絵
 
こうだが、おれには当然ながら、思想やその他の知識が邪魔してこの絵を素直に見ることはできない。「けっ」という感情抜きに見ることはできない。おれが正しく平沢が描いた絵を見るには、ポケットに50億円入れたつもりで展覧会を見に行って、「これは○億」「これは○億」と心の中で値を付けながら歩いていってその絵の前で、
「○億かな」
と思ってから描いた作者の札に眼を走らせて、そこに《平沢大璋》とあるのを見て、
「え?」
ということになる必要があるだろう。
 
だが平沢の無実を信じる人間は、思想やその他の知識で絵を見て平沢の絵を誉めそやす。ほんとは平沢の無実を信じているわけじゃなく、GHQの実験説を疑わないから平沢が無実でなければいけないことになるだけなのだが、絵を見てなんのかんのと言う。
 
なんのかんのと言うけどまあ大抵は、
 
作品名:端数報告6 作家名:島田信之