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端数報告6

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「どうだ、いいだろ。まあ美人というほどでもない。その辺にいくらでもいそうだけど、嫁にするにはこれくらいがいいぞ。この子をやるから、お前いっちょう人類のために戦えや」
と言われてるような気分になった。
 
そういう意味で好きなんだが、『ターミネーター』は〈サラ・コナーの物語〉でなければならず、『2』で完結とするべきなのだ、本当は。そう結論づけるしかない。〈スカイネット〉の話自体がそもそもとってつけたような設定でしかないところに無理に続けようとすると夾雑物が入り込み、もともと嘘がある話の矛盾が露呈してしまう。
 
それをごまかすためにアクションで飾るのだが、なんでどうして毎度毎度、敵は一体だけマシンを送り、救ける側もひとりだけを寄越すのか。『3』でだいぶそう感じていたところに、今度のあれはなんだ一体。まるで重みのないようなやつで、顔もぜんぜん怖くない。
 
『ニュー・フェイト』のアクションは見ていてダレる。ダレ場でしかない。『マトリックス リローデッド』という言葉がずっとまぶたに浮かんでいたし、どうも全部がストーカー男対ウーマンリブ集団という感じであり、それをCGで見せられても、1970年のまんま変わっとらんのじゃないか。これでいいのか。と思えてしまう。小栗旬は『罪の声』の犯人に、あなたは1984年のままだと言った。
 
違う。1970年安保闘争の時代のままだ。あるいは1968年、〈世界が揺れた年〉のままだ。小栗旬と星野源が犯人達に投げつけるセリフは全部が原作になく、木村拓哉や江口洋介あたりが主演の映画やドラマから引っ張ってきて脚本家に、
「これも言わせろ。それも言わせろ」
と言って迫ったもんだとわかる。そうしていくつもいくつもつなげた。ロンドンの街を無意味に宇崎竜童に歩きながら話さすことで動機が動機になってないのをごまかし、ここぞとばかりに、
 
「空疎な国を見せつけて、何か変わりましたか? 犯罪という形で社会に一矢報いて、何が残りましたか。日本はあなたの望む国になったんですか」
 
と言う。このセリフは「動機が動機になっていません」と言っているのと同じであり、つまり話が事件の謎を解くことになってないのと同じなのだが、小栗旬は自分がカッコよければいいのでそれを問題とはしない。
 
そして、
 
「俊也さんから伝言を預かりました。『私はあなたのようにはならない。この先、何があっても、誰かを恨んでも、社会に不満を抱いても、決してあなたのようにはならない!』」
 
とずいぶんと偉そうに言う。しかしなんでそんなこと、自信を持って言えるのか。
 
ロンドンでロケして撮っているからか。『ターミネーター ニュー・フェイト』も何から何まで嘘臭いが、ただひとつ、おれが聞いて嘘と感じなかったのが、未来から来たグレースが言う、
 
 
   「桃缶1個のために父は殺された」
 
 
というセリフだった。これはポツリとつぶやくように発せられる。〈抑制〉という言葉を知らない『罪の声』の演出と違う。
 
1日目、電気や電話が止まる。2日目なんたらかんたらで、3日目全面戦争へ。数百万がそれで死に、食料が尽きると数十億が。
 
それが未来の戦争という。これは嘘と感じない。演技が抑制されていて、言うのが美人でもあるからだが。
 
日本は食料を自足できない国であり、石油もまた産出しない。国の経済が破綻すれば、何も輸入できなくなる。その時果たして小栗旬や星野源のようなことが言えるか。
 
「この先何があっても」だって? そんなもんはこの先に何もないと信じていられる人間のセリフ、水と安全は永久にタダと思っている者のセリフだ。食うに困る状況になっても、そんなことが果たして言えるか。
 
スーパーで買い溜めなんかしてもダメだ。ブラック何デーとかジャッジメント・デイというのは突然やってくる。予告はない。宣言などない。カネの亡者が世を食い物にすることを銀行も大蔵省も好きなようにさせている。それは癌細胞であり、経済機構は社会の肝臓なのだけれど、黙っているから破局はある日いきなりに来る。
 
その後はカネは紙クズになる。電気と食料がなければ人は殺し合うしかない。コロナの嘘を続けていればいずれその日が来てしまうだろう。そう遠くもないだろう。その時にも、
「私はあなたのようにはならない」
なんて果たして言えるのか。
 
もう犯罪は既に増えてる。マイノリティーが迫害を受けることにもなっている。食うに困った人は盗みに走るしかない。それに向かって、
「決してあなたのようにはならない!」
と言える人間はいい気なものだ。
 
おれにはそんな自信はない。もっとも、この先何があっても、小栗旬や星野源のようなやつには死んでもなりたくないが。「1984年のまま」と言ったらこいつも、
 
画像:加藤譲ちょっとでも肉付けしたいという思いでその後も27年やってきた
 
そうなはずだけど、1984年の何がそんなに悪いのか。エンデンブシは例の無料電子本で、
 
画像:罪の声無料小冊子世の中カネやという風潮だったことがよくわかりました
画像:罪の声無料小冊子表紙
https://books.rakuten.co.jp/rk/d92550f69eaa3f7ebac188b83495e3f2/?l-id=search-c-item-img-09
 
こう言っている。
《「世の中カネや」という風潮だったことがよくわかりました》
だって。何言ってんだ? そんなもん、いつの時代も同じだろう。今はサラ金が闇金になり、深く潜っただけのことだ。パチンコや宝くじはより射幸心を煽るようになってるし、多重債務に追われたやつが振り込め詐欺に走るようになっている。キャバクラ嬢が男のカネを吸い上げて、それをホストが吸い上げるようになってるが、それも一部の人間の話だ。
 
グリ森事件当時は町にまだ結構多くあった、
 
   *
 
加藤「おばちゃん、ここ、森永置いてあんのやね」
店主「頑固に置いてまんのや。ウチみたいな店は大丈夫やろ」
 
画像:ウチみたいな店は大丈夫やろ
 
こんな小売店も、今はほとんど見る影もない。
 
1980年代が日本人がみんなバブルに踊った時代なんていうのは、マスコミが勝手に言っているだけだ。テレビ業界や出版業界の人間が皆、
「あれはいい時代だった。もう一度来てほしい」
と言いつつ自分を棚に上げ、土地や株で儲けた者をまるでキツネのように言い、自分以外の日本人が全部そうであったような嘘の話を作り上げる。
 
エンデンブシはそれに騙されてるだけだ。おれが知ってる80年代は高橋留美子が『めぞん一刻』を描いてた時代でもあった。日本人の大々多数は堅実なあの世界に生きていて、おれももちろん一刻館の住人だった。
 
アフェリエイト:めぞん一刻
 
音無響子がエプロン着けて箒で道を掃いている。お出掛けですかレレレのレ〜。それが本当の当時の日本だ。憶えているが思い出せないこともある。おれは斉藤由貴と一体何を約束したのだろうか。
 
作品名:端数報告6 作家名:島田信之