詩集 season~アンソロジー~紡ぎ詩Ⅶ
清冽でありながら、芳醇でもあり、かといって強すぎもせず、可愛らしく主張するような香りだ。なるほど、その香りの正体が金木犀だと知った時、可憐で控えめな花らしい香りだと納得した次第である。秋になるとこの香りが濃厚に漂うのは、近所に金木犀があるのだろうと結論づけた。
ところが、最近、私的には大発見があった。数年前から健康維持のために室内ウォーキングをしているのだが(寺なので本堂までの廊下が長いので、廊下を往復してる)、廊下沿いのガラス窓越しに裏庭が広がっており、その眺めがなかなか興味深い。同じ場所からの景色でも、日々、季節と共にうつろいゆくのだ。
ウォーキングを始めるまでは自宅内とはいえ、ろくに眺めることもなかった。数日前、いつものように直立不動で手を振りながら独特のウォーキングポーズで歩いていた私は、ハッとして止まった。ガラス窓越しにオレンジ色の花が見えたからだ。眼をこらすと、何と金木犀ではないか! けして大樹というわけではないが、そこそこ大きくなった金木犀が一本、裏庭の片隅ー隣家の窓すれすれの場所にひっそりと植わっていた。
何ということだろう。近所どころか自宅の庭に金木犀があったことに今まで気づかなかった。裏庭は枯山水の趣ある庭園ではあるのだが、長い年月、業者が定期的に手入れに入るだけで、家人が足を踏み入れることはないままに時が過ぎていた。
この家で過ごしてき歳月を考えれば、恥ずかしい限りだ。それにしても、秋になると素敵な香りを届けてくれていた花は、我が家の金木犀だった。無知とは怖ろしいものだと思う反面、何かビッグなプレゼント(世界最大級の発見)を貰ったような浮き浮きとした気分でもある。
今日もオレンジ色の可愛らしい花は、魅惑的な香りを振りまきながら、秋の澄んだ陽差しを浴びている。午後からのウォーキングの途中で、ひとしきり眺めるとしよう。
☆「勿体ない時間の使い方」
何からお話ししたら良いのだろうか。最近、血液検査で異常が見つかってしまった。まずはそのことから始めようかと思う。
正直に打ち明けると、私はかなりの不安体質である。家族に言わせれば、始終、する必要の無い取り越し苦労ばかりしているそうだ。自分でもその自覚はある。が、なかなか悪癖は直らなかった。
いつもどこかがチクリと痛む度に、
ーもしや、○○に悪いものができているのでは?
という感じで、青くなって悩んだ挙げ句、病院に駆け込むの繰り返しただったように思う。人生百年時代も半分まで生きてくると、繰り返す検査で引っかかることもまあ、それはあるだろう。確かに末子を妊娠中に大病をしたこともあるし、数年前にも婦人科系で引っかかったことはあれども、精密検査では悪いものではないと判って安心できたのだ。妊娠中の大病は出産が終わると、医者からも奇跡といわれるレベルで完治した。
だから、心配はしても何とか無事に通過できるという安心感があった。だが、今回ばかりはそうもゆかなかった。
知人の勧めで受けた検査で、モノの見事に的中しないで良い心配が的中してしまった。
もちろん、自分自身に思い当たる節があるからこそ受けた検査ではあったけれど、いつものように
ー取り越し苦労で済んで良かった。
となるとばかり楽観していたのも確かだ。
しかし、一ヶ月以上も検査結果を訊きにいく勇気がなかった私がようよう意を決して受診したにも拘わらず、医師から告げられたのは「異常あり」だった。
医師に寄れば、「軽症」で「生命に拘わるようなことはなく」、「日常生活で気をつけることもない」、「次回の受診」、「投薬」すらないということだった。
ここまで言うと、
ー何だ、たいしたことないんじゃない。
と思われるかもしれないが、実はそうではない。医師は
ー何か自分でおかしいと感じたら、また来て下さい。
とのことで、何もなければ受診は必要ないという。
が、この病気だけで済めば良いのだけれど、何より怖い合併症というものがある。そして、この病気にかかれば、誰でも合併症を発症する危険はあり、そうなると生命に拘わることになるのだ。
医師にそのことを指摘すると、
ー今まで診てきた患者さんの中では見たことがない。
と言われる。
しかし、それはやはり単発の病気であればのことで、これに合併症を併発すれば、そうもゆかないだろうというのは素人の自分でも察しがつくというものである。
むろん、皆がそうなるのではないし、単発で済む方もそれなりの数はいらっしゃるらしいが、同時に合併を不幸にして起こしてしまう方もまた、ごくわずかという数字よりは多いらしい。
これは私にとって晴天のへきれきであり、ショック以外の何ものでもなかった。
帰宅してからも、涙に暮れる日々が続き、いまだに実のところ打撃から抜け出せてはないない。またやや特殊な病気なので、専門医を探して初めての医院を受診したのだが、そこの医師がイマイチ、信頼できかねるという心細い現状もショックに輪を掛けている。
この病気は何も症状らしいものがなくても、経過を追わなければならないのは常識らしい。複数の医師が慎重に経過を見ることを勧めている。
なのに、「次の受診は必要ない」という医師を信用して良いものだろうか。
最近は何かちょっとした異変が起きる度、
ーいよいよ合併症が出たのでは?
と、青ざめている。
ちょっと今までとは心配のレベルが違い過ぎる。
だが、ふと考えたのだ。
今まで自分は何かあれば、すぐに自分が病気ではないかと騒いで、家人に呆れられるほどだった。
つい何年か前も、ボーっとしていることが多く、すわ若年性認知症ではと本気で思い悩んでいた時期さえある。
今日、しみじみとあの頃の自分が滑稽にも憐れにも思えた。
まさに健康そのものであった時、必要の無い心配をし、病気ではないかと騒ぎまくっていたとは何と愚かな、そして勿体ない時間の使い方をしていたのだろう。
本当は何の憂いもないのに、自分一人で無いはずの病気を作り悩んでいたとは、まさに愚か以外の何ものでもない。
だとすればー。
「一病息災」という言葉がある。不幸にして今までは何とか病気を回避してきたが、ついに病気になってしまった。
だが、「一つ」にとどまっている限りは、まだ大丈夫。この先、どうなるかは神仏のみぞ知るということだ。言ってみれば、起きてもいない先の不幸を想定して嘆いてばかりいても、「実際に起きること」は変えられない、変わらない。そのことを、私は今回の試練で嫌というほど思い知らされたはずだ。
ならば、今また先の知れないことを考えては嘆いているのは、やはり「勿体ない時間の使い方」に他ならないのだ。
ああ、何度痛い眼を見ても、この性格は治らないようだと我ながら失笑するしかない。
これから先、どうなるのか判らない。でも、既に運命は決まっている。心配しているようなことは起こらないかもしれないし、その逆も有り得る。
ならば、今、悩んで暗くなって楽しくない時間を過ごすより、今はとりあえず「健康」なのだから、「今」を大切に楽しむべきだ。
こんなことを考えた次第である。
作品名:詩集 season~アンソロジー~紡ぎ詩Ⅶ 作家名:東 めぐみ