火曜日の幻想譚 Ⅳ
472.問
学校で宿題が出た。
「算数ドリルの38ページ、(2)をやってきてください」
小山先生は、確かに帰りがけにそう言った。ひろとくんは家に帰ってきてから、友だちとひとしきり遊んで、夕食前にようやく指定のページを開き、解こうとする。ところがこの問題、全く分からない。授業はしっかり聞いていたし、授業の内容もちゃんと理解しているはずなのに、この問題はどう解いていいのかすらも分からない。
「ひろと、ご飯、食べちゃいなさ〜い」
お母さんの呼ぶ声が聞こえる。取りあえずご飯を食べてからにしよう。ひろとくんは、多少の不安を感じつつ、ドリルを閉じてお母さんの待つ食卓へと向かった。
「ふー、いいお湯だった」
夕食後、ついついテレビを見てお風呂に入ってしまい、いざ寝ようという段になって、ひろとくんは宿題を終えていないことに気が付いた。心中に一滴のインクを垂らしたように、どす黒いものが広がり始める。最悪、忘れたことにして怒られてもいい。けれど、もしかしたら今なら分かるかも。ひろとくんはそう思い、少し気が進まない中、いすに座ってドリルを開いた。
「うーん。やっぱり分からないや」
おなかがいっぱいだからでも、お風呂に入ってすっきりしているからでも、もう眠いからでもない。あらためて問題を見直しても、やっぱりひろとくんには、解法の糸口さえつかめそうになかった。
「今回は、忘れたことにするか」
担任の小山先生はとても優しいので、宿題を忘れてもそれほど怒らない。ひろとくんはそれに甘えようと思い、ドリルを閉じて眠ろうとしたその時だった。
ぱっとひろとくんの頭にビジョンが浮かぶ。中学校の制服を着たひろとくんが、試験と思しきシーンで、問題が分からなくて頭を抱えているところだった。
そのシーンはすぐ移り変わる。今度は高校の授業と思われる場所で、先生に「こんなことも分からないのか」と叱られ、高校生のひろとくんが頭をかいている。
次は大学の講義。さらに次は会社に入ってからのプレゼンでの質問……。先ほどの全く分からない問題を突きつけられ、大量に汗をかいている自分自身の姿が、ひろとくんの脳裏に次々と浮かんでくる。
それらの幻影を目にして、ひろとくんは恐ろしくなった。この宿題をやらなければ、自分の志望する高校にも、大学にも、会社にも入れない。一生、笑われる。その怖さに耐えられなくなったひろとくんは、無我夢中で机に向かいドリルの問題を見直す。でも、やっぱり分からないものは分からない。
暗い未来の恐ろしさ。問題が分からない現実。それらのせいでどうしようもなくなってしまったひろとくんは、回答にもなっていない、わけの分からない数字を書きなぐり、無理やりベッドに潜り込んで眠ってしまった。
翌朝、小山先生に何と言われたのか、その問題の答えはどうだったのか、それらの記憶はひろとくんの脳内に全く残っていない。ただ小学生の当時、全然、分からない宿題があって、とても怖いを思いをしたという記憶があるのみだ。
年月がたち、そんなひろとくんにも孫ができた。宿題を教えてほしいとせがむ孫に、ついつい頬を緩めてしまうひろとおじいちゃんは、孫のドリルを開き、どこが分からないか聞いてみる。
「38ページの(2)なんだけど、全然、分かんないんだよ」
問題を見た瞬間、当時の恐ろしい記憶がよみがえる。流れてくる脂汗、乱れてくる呼吸。無邪気に顔をのぞき込んでくる孫をよそに、ひろとおじいちゃんはドリルを見つめながら、いつまでも動き出すことはなかった。