火曜日の幻想譚 Ⅳ
397.無視の理由
日曜日の気持ちがいい朝。
天野市立天野南小学校では、天野西シャインズ対天野南ファイターズの試合が行われていた。どちらも昨今の少子化の中、少ない人数で運営が行われているチームだ。
試合は最終回の表、天野南ファイターズが、主砲、石原君のタイムリーヒットでようやく均衡を破る。続く5番、鈴木君も後に続き、追加点のチャンスを作る。ワンアウト1、2塁、ここで打席に立ったのは6番の藤野君。
藤野君は丁寧にバッターボックスを足でならし、精神を集中する。そして、監督のほうに目をやった。石原監督は右手で左の肩、腕、手の甲と順々にたたく。それは、試合前に何度も確認した送りバントのサインだった。
藤野君は、そのサインを見て考え込む。このサインの理由は、ここ最近、打撃が振るっていない自分に対する信用のなさの表れだろう。それに、次に控える打者、山内君が絶好調という事情もある。彼は先週の試合で3打数3安打の猛打賞、この試合でも2安打を放っている。打率もチームで一番高い。それこそ今、監督の息子で不動の4番に座る石原君を脅かす勢いなのだ。
しかし、藤野君はそれでもバントをするべきではない、と考える事情があった。
結局、藤野君はフォアボールで一塁に歩く。続く7番、山内君は、満塁のチャンスでピッチャーゴロのゲッツーに倒れた。
試合はその後、天野南ファイターズが最終回の裏を抑え切り、そのまま1-0で逃げ切った。
終了後のミーティング。石原監督は早速、藤野君のサイン無視を話題にする。
「藤野。最終回のサイン無視はどういうことだ」
その声は怒気がこもり、とても勝利試合のミーティングとは思えない。しかし、藤野君は先述したように、明確にサインを無視すべきだという理由があった。これを言えば、監督も納得してくれるだろうという理由が。
「サインを無視したのはほかでもありません。相手チームにサインが盗まれていたからです」
チームの皆はどよめく。
「僕は見ました。試合前にある選手が、相手チームの仲が良い選手のところへ行くのを」
石原君がそっとうつむいた。
「今日、恐らくいつも以上に送りバントの失敗率が高かったはずです」
「うん。確かに5割以上失敗していて、珍しいなと思ってたんだ」
殿村コーチもスコアブックを見ながら、藤野君の意見を後押ししてくれる。
「だから、あの場は送りバントのサインを受け入れつつ、守らない選択を取りました」
「言いわけは以上かね」
それでも監督の声は冷たい。
「それでも、サインは無視するべきではない」
監督は、少年野球である以上、規律が重要なことだと暗に言いたいのだろう。
「しかし、野球はクレバーにするものだと監督もおっしゃっ……」
「例え、サインを無視して相手方をかく乱させたとしても、それはクレバーとは言わない」
「じゃあ、何をもってクレバーと言うのですか? 隠し玉だってルールの範囲内だというのに」
「とにかく、今日ミスがあった藤野は、来週打順を下げる。覚悟しておくように。あと、サインを相手チームに伝えたものは、後で、名乗り出るように」
「監督、それはおかしくありませんか。サインが相手に伝わっていたことを教えた僕は打順が下がるのに、サインを教えた人は、黙ってればおとがめがないってことですよね?」
「そんなことはない。私はチームのみんなが正直であることを信じる」
監督は若干、うつむき加減に言う。監督である以上、こう言わざるを得ないのだろう。
「もう良いです。僕、今日限りで辞めます」
藤野君は切り札を出さざるを得なかった。今のチームの人数はかつかつだ。自分が出ていくとなれば、監督も考え方を変えるだろうという最後の抵抗だった。
「……そうか。わかった」
だが、監督はにべもなくそう言うだけだった。
藤野君がチームを去った後、程なくして天野南ファイターズは解散した。その後、藤野君はすっぱりと野球をやめたが、実力のあった石原くんは中学、高校と野球を続け、プロの道に進むこととなった。
藤野君は思う。あのときの自分の判断は、監督の判断は、果たして正しかったのだろうか。それとも、もっといい方法があったのだろうか。あれしかなかったと無理に思い込んで心に毛布をかぶせるが、妙にすきま風が吹き抜ける。藤野君はそんなうそ寒い気持ちの中、ディスプレイの中にいる、かつてのチームメイトの姿をながめていた。