火曜日の幻想譚 Ⅳ
421.消失墓
春。ようやく暖かくなり始めた彼岸のある日。
一人の女性が、広場の中を慎ましやかに歩を進めていく。少しうつむき加減で、花や線香、掃除道具などを手に持って。
「…………」
彼女は無言で歩き続ける。いくつかの角を曲がり、いくつかの道を直進して。やがて、彼女はある一角で立ち止まり荷物を置く。直後に彼女は、その場所でしゃがみ込んで両手を合わせた。
春の彼岸の墓参り、ごくごくありふれた景色かもしれない。ただ一つ、彼女の目の前にある墓が、数センチしかないことをのぞいては。
3年前に亡くなった優佳さんの夫、隆弘さんは、とても心優しい人だった。大人しくて穏やかで、虫も殺せない。優しいを通り越して、気が小さいと評されることもあるくらい思いやりのある人だったという。彼には両親がおらず、幼少時を施設で過ごしたことも、こうした性格形成に寄与したのかもしれない。
そんな彼が結婚後、程なくして病魔に侵されたとき、優佳さんに言い残した言葉があった。
「いいかい。僕のことなんか忘れて、君は幸せになるんだよ」
その言葉の数カ月後、隆弘さんは帰らぬ人となった。
優佳さんが異変に気づいたのは、四十九日に墓を訪れたときだった。
「あのとき、妙にお墓が小さいなって思ったんです。まるで、自分のことは忘れてくれと言っているかのような……」
始めは、誰かが削り取っているのかと思った。だが、墓の形自体は変わらず、徐々に大きさだけが小さくなっている。
優佳さんは、霊園にこのことを報告して調査をしてもらった。だが、結局理由は分からずじまい。
「きっと、自分のことを忘れてほしいという、夫の気持ちの現れなのかもしれない」
調査に携わった大学の教授すらお手上げな状況で、優佳さんはそのように思ったそうだ。
だが、ここで大きな問題が発生した。墓自体がなくなっても、隆弘さんの遺骨は残っている。優佳さんが他家に嫁いだら、もうこのお墓は墓じまいにするしかない。故人の遺志を無視して、消えた墓を守り続けるか。新しい未来を踏み出し、かつての夫を無縁仏にするか。二つの選択肢が、優佳さんに重くのしかかってきたのだ。
春の彼岸である今日。墓が消えると思われる日まで、あと少し。
優佳さんは、現在、交際している男性がいるという。
「お墓がなくなっても、無縁仏になっても、記憶には残り続けるって気づいたんです」
優佳さんはそう言って笑い、すっかり小さくなって親指大になってしまった墓に水を掛けた。
だが、世間の風当たりは弱くはない。
「他の人がどう言おうと私は私です。悪女とでも何とでも言ってください」
優佳さんは最後の墓参りを終え、墓地を後にする。そしてこれから、墓じまいの手続きに向かう。
歩き去る優佳さんのはるか向こうに、交際相手らしい男性の姿がちらりと映った。