火曜日の幻想譚 Ⅳ
449.蛍光ペンと弟
弟が病で若くして亡くなった。
順当に行けばコンピューターの専門学校を今年卒業し、晴れて社会人になるはずだったが、元来心臓が悪く、ある日突然倒れてから病院での生活になり、半年ほど病室で最後の日々を送ったあと息を引き取ってしまった。
兄の私は一足先に社会人になり、家を出ていたこともあって、弟がこの世からいなくなってしまったという実感が全くわかなかった。母が人目をはばからず号泣しているのを見て、ようやく自分に少しだけ似たあの顔に、もう会えなくなったんだなと思うのが精一杯だった。
私のその振る舞いを、気丈さだと勘違いしたのだろうか、葬儀の後、父が突然、遺品を整理してくれないかと言い出した。
どうせ忌引は数日間取ってある。早めに家に帰って静養するのもいいが、実家にいたって別に問題はない。私は父のその提案を受け入れ、弟の部屋へと足を踏み入れた。
彼の部屋は、昔と一切替わっていなかった。最後に入ったのはいつか覚えていないが、確か蛍光ペンを借りるような野暮用だったと記憶している。
そうだ、その蛍光ペンを返すときに、いざこざがあったのだ。私は本にラインを引くのに使ったのだが、本のインクで蛍光ペンのペン先を汚してしまった。弟はそれに怒ったのだ。
だが、私としても悪気があってやったわけではないし、蛍光ペンなどそれほど値の張るものでもない。何なら、弁償をしてもよいという提案もした。
しかし、弟は引かなかった。確かに蛍光ペンは特別なものではない。だが、他人の物を汚しておいて、お金でどうにかすればいいという、その性根が気に食わないのだと熱弁した。私はとりあえず申し訳ないと平謝りに謝って、その場を収めるのがやっとだった。
思えば、そんなこともあったなぁ、そう思いながら作業を行っていく。
あらかた遺品の整理が終わり、残るは彼のパソコン1台となった。この中だけは、何があってもちゃんと初期化せねば。
そう思い、電源を入れる。しばらくして表示されるデスクトップ画面。そこには、右上に一つだけアイコンが表示されていた。アイコンだらけの私のデスクトップ画面とは違い、弟はちゃんと整理をする人間だったようだ。
さあ、フォーマットをしよう。そう思い準備をしたその瞬間、なぜか、弟の声でデスクトップのアイコンを、ダブルクリックしろという声が聞こえた気がした。私はその声に抗えず、その奇妙な形のアイコンをダブルクリックし、起動させる。
ふっとウインドウが表示される。そこには、大きな赤文字で私に対する罵詈雑言が記されていた。恐らく蛍光ペンの一件を根に持って、作ったものなのだろう。罵詈雑言は数十行続いた後、「まあ、俺にも悪いところはあったけどな」という文章で結ばれていた。
あのとき、弟がまくし立てた内容がよみがえる。それと同時に、もうあいつとあんなやり取りもできやしないんだと思い、切なくなる。私はようやく弟を失った悲しみに気付き、人知れず涙を流していた。