火曜日の幻想譚 Ⅳ
373.付喪神
うちのおじいちゃんは、とにかくぼんやりした人だった。
若いころから物忘れがひどく、学校では忘れ物名人とまで言われていたらしい。社会に出てもその態度があらたまることはなく、およそやりそうにないミスをして、上司に怒られてばかりだったと聞いている。結婚はお見合いだったようだが、運良く捕まえた奥さんがしっかりした人だったのと、戦後の高度成長とで、どうにかこうにかサラリーマンを勤め上げることができたようだった。
年金生活に入ってからも何かに熱中するでもなく、ただただダラダラと無為徒食の日々を送っていた。しかし、そんな生活もすっかり年季が入ったつい先日、ちょうど100歳の誕生日に、おじいちゃんは突如として俳句を始めたのである。
今までろくに生きてこられなかったやつが、どういう風の吹き回しだという周囲の声をよそに、おじいちゃんは足繁く句会に通った。100歳とは思えないほどの精力で動き回り、名句を作り上げていく。その実力の程は、奨励賞という形と言えど、あのペットボトルのお茶に句が載った程だ。かなりの実力であることが分かるだろう。
驚いたのは私たち周囲の人間だった。表立ってこそ言わなかったが、私を含め、みんなやはりどこかおじいちゃんを下に見ていた部分があった。あれ程しっかりしておじいちゃんを支えていたおばあちゃんは、やることがなくなってすっかりうろたえている。おじいちゃんを軽く見ていた親族たちは、手のひらを返すのが気まずくて、おじいちゃんの話をしようともしない。私もおじいちゃんのあのゆるさに癒やされていたのに、100歳を境にすっかり近寄りがたくなってしまった。
結局、やることのなくなってしまったおばあちゃんが先に病で倒れてしまい、おじいちゃんも後を追うように106歳の生涯を閉じた。しかし、100歳を過ぎてからの6年間で、一気にそれまでの全てを取り返したような人生だった。
そんなおじいちゃんの人生を振り返りながら、ふと思ったことがある。長い年月をかけて用いられたおちょうしやかかしなどに取りつく、付喪神 (つくもがみ)という精霊がいるそうだ。まさか、おじいちゃん、こいつに取りつかれたのではないだろうか。100年間、ぼんくらに生きてきたおじいちゃんが、精霊が乗り移った途端、急にシャキッとした。いっそ、こう考えたほうがつじつまが合う気がする。
だが、これはこれで問題もある。精霊に人ではなく物だと思われていたなんて、いくら何でもおじいちゃんがかわいそうだ。それに、あの俳句の実力が霊によるものだとしたら、おじいちゃんはあの6年間、果たして幸せだったのだろうか。さすがにこれは想像が付かない。もしかしたら、私も100まで生きてたら味わえるかもしれないけれども。