Straight ahead
スマートフォンをポケットに戻し、店の中に戻ると、綿野と果歩の距離感は全く変わっておらず、定位置に戻った源は、綿野に言った。
「ぼちぼちいきまっか」
「いきますのか」
綿野が生返事をするのは珍しいが、おそらく果歩とのやり取りが永遠に続けばいいと思っているのだろう。源は笑いながら綿野の体を揺すった。
「ほーら、もうふらふらやんか」
「お前が揺するからやろ、分かった分かった」
綿野は諦めたようにニット帽に手をやると、位置を調整してから財布を取り出した。源が置いた千円札に自分の千円札を足すと、立松からの小銭を受け取って財布へ流し込んだ。
果歩がぺこりと頭を下げ、綿野は目で応じると、先に暖簾をくぐって外へ出た。源は上着のファスナーを上まで引き上げると、隣に並んで歩き始めた綿野に言った。
「で、なんて?」
「あの果歩って子は、単に地元に溶け込もうとしてるって、言うてたな。でも……」
「そんな奴おるかいな。な?」
そう言うと、源は綿野と顔を見合わせて笑った後、続けた。
「南団地に好きから溶け込む奴なんか、どこにおんねん」
「確かにな」
綿野はそう言うと、後ろを振り返って立ち止まった。ぼんやりと光る看板。店の中にはまだ、高崎がいる。もう昔の話だが、とりあえず何かの役に立っていれば、家には帰されないと思っていた。実際には、役に立つ必要もなかった。うどんとコロッケの味だけでなく、暖房だけが効いた薄暗い部屋の空気すら、覚えている。腹が満たされた後は不思議と、一年中夫婦喧嘩をしている家のドアを開けるだけの勇気が出たことも。年が変わり、正月。年末の礼を言いに訪れたとき、二階の窓から茶封筒がひらひらと降ってきた。記念すべき一回目の『落とし玉』。高崎のやり方に問題があったとすれば、集まっていた子供たちは特に仲良しクラブだったわけではなかったということ。当然、取り合いになれば力では勝てなかった。源に肩を引かれて前へ向き直った綿野は、車が近づいていることに気づき、脇に退いた。
白のインプレッサSTIは、喉を鳴らすようなエンジン音を響かせながら、源と綿野をやり過ごすと、少しだけスピードを上げて『のんべえ立松』の前を通り過ぎ、T字路の角を曲がって見えなくなった。
源は、綿野の背中をぽんと押すと、言った。
「立松ゴローがおったら、大丈夫や。どないかしよるわ」
「ひとりのおっさんみたいに言うたな」
綿野は笑いながら、今度こそニット帽を目深にかぶり、並んで歩き始めた。
高崎は、突然の『一見さん』に少しだけペースを乱され、青りんごサワーが一杯多かったということを、足の動きで自覚した。源と綿野が引き上げて三十分が過ぎた頃、果歩は会計を済ませて『また来ます』と言い、出て行った。そこから閉店までの十五分間、立松とは果歩の話で持ち切りだった。そして、四十年近い付き合いの立松と高崎が出した結論は『様子見』だった。南団地の人間は、色々と当てにしてくる。知り合いの知り合いとなれば、辿りきれない。
昔から、人の話を聞くのが好きだった。それは確かだ。三十年以上前だということ自体が信じられないが、初めてはっきりと人を『助けた』のは、二十五歳のときだった。当時立松がいたアパートの一階に住む夫婦で、夫が酔って暴れ、妻が通報したところまではよかったが、ふらりと立ち寄った警らは自転車の鈴をチリンと鳴らして挨拶しただけで帰ってしまい、犬どころか法の番人すら食わない夫婦げんかの仲裁に、なぜか立松からの要請で助太刀することになった。とりあえず思いつきで怒鳴った『やかましいんじゃ』と、拳骨二発の組み合わせで、その夫は大人しくなった。翌日の夕方、上階に住む家族連れがお礼を言いに来た。スーパーで会うと、そのアパートの住人は目で一礼するようになった。
おおよそ六十年の人生で法の長い尻尾を踏んづけたことは、少なからずある。立松も同じで、その経歴は決して無傷ではない。その中で色々と尾ひれがついた噂は、否定するのも面倒で、泳ぐままに遊ばせてきた。例えば、数人をこの世から消しているとか。源と綿野は少なくとも、そう信じているようだ。実際には、立てないぐらいに痛めつけたのが、三人。拳骨が逸れて鼻の骨が折れたのが、二人。結局打ち解けて仕事を世話してやり、県外に追い出したのが二人。覚えている限り、その程度だ。
柿本のアパートに車があるか見に行った知り合いからは、まだ返事が来ない。高崎は真っ暗な運動公園の中へ入った。街灯がまばらに照らす石畳の道を使えば、家までの道を斜めに近周りできる。果歩と名乗った、黒縁眼鏡の女。その名前を思い出すと、直感が警告を送るように酔いが少しだけ醒めた。引っかかったのは、源が電話を取ったときに、果歩が首を大きく傾けてその顔を見つめたことだ。それは、せっかく会話が盛り上がっているときに電話を優先するような、失礼な男だから?
「ちゃうな」
高崎は独り言を呟くと、携帯電話をポケットから取り出した。果歩は『愛華』という名前に反応したのだ。
ほとんど空になった焼酎のボトルを傾けて中身をコップに注ぐと、立松はひょいと口元に持っていって、ひと口で飲み干した。これ以上、客の入りは見込めない。慌ただしいまま閉店の時間が来てしまった。源が来た時点で売り上げ目標は達成したと思っていたが、果歩という珍客が訪れたことで随分早めに切り上げて帰ってしまったし、高崎は逆に一杯多く飲んで、足元が危ない状態で出て行った。
『けったいな日』
立松は何かが起きる日のことを、大雑把にそう呼んでいた。車のバッテリーが突然上がったり、銭湯で背中を拭いているときに手が滑り、タオルが飛んでいった先にたまたま別の客の頭があったり。果歩もそのひとり。頭から足先だけでなく、身のこなしもちぐはぐで、都心で物に囲まれて生活しているのは容易に想像できた。去年から電子マネーに対応したが、今までに訪れた客の中でそれを実際に使ったのも、果歩が初めてだった。
スマートフォンに高崎から着信が入っていることに気づいた立松は、水気の残る手で摘まむように本体を持ち、通話ボタンを押した。
「はいよ」
「さっきの果歩って子は、森島に用事があるんかもしれん」
「愛華ちゃんのことか?」
「そう。ちょろちょろしとったら、また教えてくれや」
「了解」
電話を切り、立松はしばらく宙を見つめた。愛華に用事がある人間だとすれば、IT関係。あの家にも、色んな人間が出入りする。しばらく迷った後、立松は『カホに注意』と打つと、果歩が電子決済に使ったクレジットカードの番号を付け加えて、愛華に送った。暖簾を片付けようと目線を動かしたとき、それがふらりと揺れた。立松は咄嗟に、作り笑顔を顔に呼び戻した。さっき出て行くのを見たばかりだから覚えているが、果歩の頭の高さ。
「忘れもんですか?」
罪悪感を打ち消すように明るい声で立松が言うと、今川は散弾銃の銃口を向けて言った。
「は?」
引き金が引かれ、地響きを起こすような銃声と共に、立松の下顎から右目の真下までが吹き飛び、糸が切れた人形のように倒れ込んだ衝撃で鍋が中身ごとひっくり返った。
作品名:Straight ahead 作家名:オオサカタロウ