Straight ahead
今は免許もあれば、自分の車もある。そして部品メーカーで色んな人間と接し、ビールをお供に色々な話を聞いてきた。中には堅気ではない人間もいて、フットワークの軽い幸樹に色々な稼ぎ方を教えてくれた。口座に毎月振り込まれる給料だけでなく、財布の中に入りきらない現金がぽんと舞い込むときもあって、そういった臨時収入は全て果歩に預けた。バッグでも化粧品でも、何でも買えばいいと思っているが、果歩はいつも『どっか、ご飯行こう』と言う。
七年前に、忽然と車庫から消えた消えたフォレスター。それが全てを変えた。七年が経ち、多少火花を散らしながらもようやくレールに乗った人生は、再び同じ車をきっかけにねじ曲がった。『裏社会』に通じる先輩によると、両親は業者に嵌められたらしい。担保にした車がフォレスターだと知ると、先輩は追い打ちをかけるように『ああいう車は、海外で人気あるからね』と呟いた。つまり、業者が車を盗難した人間とグルだったということだ。
いずれ、あのフォレスターのハンドルを握るつもりだった。大人になれば自然と、それまで運転席と助手席に座っていた両親が後部座席に座り、自分と妹が運転席と助手席に収まる。高校生だった自分は、そう信じて疑わなかった。記憶の糸を辿るために、晩御飯を食べるのも忘れて古いパソコンを漁っていると、外装や内装だけでなく、車検証の写真まであった。一度は封じ込めたはずの過去。それでも何をすべきか思いつかないでいると、家にやってきた果歩が、幸樹以外の全員に向けるように宙を見たまま言った。
『殺したいね』
重力の影響を受けるのは、人間の体だけじゃない。物事も、悪い方向に転がるときはあっさりと傾く。そういうものだ。
「果歩」
幸樹は、妹の名前を呼んだ。果歩はスマートフォンを両手に持ったまま振り返った。黒縁眼鏡が傾いていて、額にまっすぐかからないようヘアピンで留められた前髪が少し崩れている。果歩は違う色に光る二台のスマートフォンに照らされ、顔の色を赤と青に塗り分けられたようになっていたが、私用のスマートフォンのロックをかけた。青色の光だけが残り、持ち主の手元に置いた果歩は、部屋全体を見渡した。
「うん」
納得したように呟くと、果歩は先に外へ出た。幸樹は、スマートフォンのすぐ隣に横たわる柿本に言った。
「ほな、いきますわ」
背骨を折られて両足の自由が利かなくなった柿本は、首をぐるりと回して幸樹の姿を捉えようとしたが、その姿よりも先に安全靴の靴底が視界に飛び込んできた。幸樹はボーリングの機械のように足で柿本の頭を踏みつけ、一発目で左頬の骨と奥歯数本を折った。二発目と三発目が同じ仕事を執拗に繰り返し、四発目で足に伝わる反発が明らかに変わった。目の周りの骨が陥没したことを知った幸樹は、元の半分ほどに圧縮された柿本の死に顏を正面から覗き込んだ。フォレスターの車検証の名義欄。父の代わりに書かれていた名前の主。
事務所の一階に下りてインプレッサのトランクに段ボール箱を放り込み、運転席に乗り込んだとき、先に助手席で待っていた果歩が、スマートフォンに収めた写真を細い指でスクロールしながら言った。
「結婚してたみたい」
「そうなんか。名前とか分かった?」
「うん。愛華? これが奥さんかな。娘が花梨ちゃん。他は関係者かな、高崎さんとか」
「へー」
幸樹はテンポのいい会話を打ち切り、インプレッサを発進させた。二〇〇四年型のSTIで、色はかつて本堂家にあったフォレスターと同じ、白。目的を果たすためだけに特化された車。果歩は、両親のことが大好きだった。だから一秒であっても、当時あったことを忘れるつもりはない。柿本武は、単なる名義人。繋がる人間が裏に蠢いている。どこまで辿れるかは分からないが、この目で見た人間は、ひとり残らず殺す。
ギアチェンジのたびに少し揺れる車内で、果歩はハンドルを握る幸樹の横顔を見た。色んな仲間がいて、仕事もしている。何なら、もう大人の妹にお小遣いをくれるときだって。
実際には、アルバイトの掛け持ちでお金には困っていない。幸樹が知っているのは、昼の歯科助手だけ。夜は、家から二駅しか離れていない繁華街のガールズバーで働いている。幸樹と店でばったり出くわす可能性は、おそらくゼロ。二十五歳になるのに野暮ったくて、見た目は部活帰りのまま冷凍保存されたようだ。お金の心配はもう要らないから、お小遣いをくれそうなときは、一緒にご飯に行こうと誘うようにしている。本堂家には、家の思い出が極端に少ない。その代わり、物に囲まれて育ったのは確かだった。両親は、物を捨てられない人達だった。幸樹が二年前にこのインプレッサを買ったとき、思った。『本堂病』からは、誰も逃げられないのだと。ガールズバーから入って来るお金は、特注の枕だったり、ドイツ製のオーブンだったり、徹底的に物に変えている。常識のある人間からすれば、分不相応な金を手に入れて好きに散財しているように見えるだろう。しかしこれは、家族ぐるみで罹った病なのだ。
果歩はギアチェンジに備えて頭をヘッドレストに預けると、これから会いに行こうとしている人間の顔を思い浮かべて、自分にしかため息と分からないような空気を短く吐いた。確か、殺したいって言った。一年近く前の話だ。今でもよく覚えているのは、あの瞬間だけ兄妹で完全に同じことを共有して、今までにないぐらいに血の繋がりを感じた気がしたから。でもあれは、そういう効能のあるただの呪文だったはずなのに。たった今、実際に人が死んだ。あり得ないことが起きている。まるで、ラリった一休さんが、屏風から幻覚の虎を出したような。
ただ、わたし達がその虎だとすれば、幸樹の理屈は完全に正しい。果歩は細い眉をひそめると、言った。
「わたしも、今川さんと会わなあかん感じ?」
「一応な。恩人やから」
ステロイド漬けの一休さん、幸樹。その耳には、わたしのニュアンスなど伝わっていないだろう。果歩は返事の代わりに無言で受け入れると、姿勢を正した。今川というのは、このささやかな復讐劇をお膳立てした、幸樹の仲間。年上のはずだから、先輩だ。全てのサイズを常人の半分にしたように小柄で、幸樹の勤務先に出入りしてる外注業者のひとり。塗装を担当しているから、常に溶剤のような匂いがする。身長百五十七センチのわたしとほぼ同じ背丈だから余計に、その視線がどこを向いているのかよく分かる。化粧を施した顔ではなく、もっと下で、だいたい胸元とお腹の間。
幸樹曰く、今川は『違法な道具』もひと通り揃えているらしい。果歩はオーディオの時計を見た。午後九時。計画通りなら、今川と会って、もうひと仕事やる。幸樹は短期決戦を望んでいる。それはわたしも同じ。
源の言うちょっと一杯は、同じグラスに注ぎ足すから永遠に一杯のままだ。行きつけの立ち飲み屋である『のんべえ立松』に辿り着くと、綿野は大勢が頭をこすりすぎて色の落ちた暖簾をくぐり、カウンターの後ろにいる店主の立松に小さく頭を下げた。
「おー、綿ちゃん。ひとり?」
鍋の中身をかき回しながら、立松が言った。綿野は首を横に振ると、一歩脇に退いた。
「源もいますよ」
作品名:Straight ahead 作家名:オオサカタロウ