Straight ahead
掲示板に届くメッセージは様々だが、物騒な中に時折、お礼メールが混ざっていることがある。志は高いが手段だけが汚く、何の罪悪感もなく人を貶めたり、傷つけたりできるタイプ。愛華はコーヒーを飲みながら、二十九インチのフラットディスプレイを眺めた。久々に一件、届いている。花梨は寝る準備を済ませてベッドに配送済、寝ているかは分からないが右向きになったまましばらく動かないから、寝る姿勢に関しては決定されたように見える。万が一起きていてこの姿を見たとしても、お仕事中ぐらいにしか思わないだろうし、何ならメッセージの内容を見ても、怪しまれることはないだろう。母親がどんな人間と付き合っていて、どうやって生計を立てているか。そういうことは、メッセージの内容よりも、この家に出入りする人間の物腰や態度を観察した方が、早く見抜かれてしまうかもしれない。回線上でのやり取りと、物理のやり取り。犯罪者には両方が必要で、時折最悪なタイミングで両者を取り違えた人間が警察の御用になる。例えば、せっかくインターネットで購入した薬物を自宅の住所に送ったり。三十一歳になれば、色々な人間関係が積み重なって来る。中には、どうやっても取り返せないものも。
それでも、源と綿野がやってくる夜だけは、総じて平和だ。洗い物も終わっていて、控えめなスピーカーからはストーンズの『悪魔を憐れむ歌』が小さく鳴っている。家で作業するためのBGMが欲しいと言うと、綿野がCDを数枚貸してくれた。源にも言ってみたが、返事の代わりに鼻から細く息が漏れただけだった。
愛華は鼻歌を歌いながら、メッセージを開いた。お礼メールの本文には『無事、手元に戻りました。お力添えに感謝いたします』とあった。愛華はチェアから身を乗り出した。フラットディスプレイに顔を近づけて目を細め、背もたれに体を預け、また発作のように前のめりになると頭を抱えた。
身に覚えがない。こんなお礼を言われるようなことは、していない。どうして自分のところに、こんなメールが届くのか。理由はひとつしかない。柿本武。どうしようもない元夫。バツをひとつ刻まれるのと引き換えに自分の世界から消し去ったはずなのに、アカウントの中では繋がっている。柿本は、森島愛華のネームバリューを利用して、時折小遣い稼ぎをしている。切り離せばいいだけの話だが、顧客全員にダイレクトメールを送って今の掲示板を閉鎖し、新しい掲示板に案内できるような商売ではない。愛華は激しく上下する胸を押さえながら、まだ湯気を立てているコーヒーを飲み干した。熱で舌の感覚が鈍くなり、喉から食道が空爆に晒されたようにまっすぐ燃え上がったとき、かすれた声で呟いた。
「あーもう。最悪……」
将来性ゼロの、モラルのかけらもない男。柿本武は言わば、常人離れした反射神経を持つド近眼のパイロットで、その危なっかしい飛行機に喜んで乗ったのはむしろこっちの方だったが、花梨が生まれ、もう少しクリーンな商売をすることを考え始めてから別れるまでの一年間は、ことごとく反発し合った。当然だ。ただの元夫なら逮捕されても構わないが、それが花梨の父なら?
トイレのドアが閉まる音が鳴り、愛華は首をすくめた。しばらくして出てきた花梨は愛華の横に来ると、言った。
「ママ、怒られた?」
愛華は両手で自分の頬に触れた。涙腺に穴が空いているようだ。首を横に振って花梨を引き寄せ、胸の中に一旦収めた。笑いながら『息ができへん』と言われて、愛華はようやく花梨を体から離した。
「大丈夫、ありがとね。寝れる?」
花梨は誇らしげにうなずくと、ベッドに戻っていった。愛華はメッセージを閉じると、スマートフォンを取り出した。あの男を花梨の周りに置いておけないと思った理由はもうひとつある。どんな詐欺師でも見た目は小奇麗にするものだが、柿本は人の恨みを買っているということを隠さなかった。決定的に幻滅し、別れることを決めたきっかけは、柿本が焦げ付いた顧客の持つ車のリストを窃盗団に流して盗ませ、情報料を受け取りながら、担保を失った顧客をさらに締め付けるということを始めたときだった。とにかく金にだけは不自由しない男だったが、初めて窃盗団と組んだ案件で思い詰めた借り手が死んでしまったときは、『人ってのはよう分からん』と他人事のように笑っていた。そして、それに愛想笑いを返していたときには、すでに別れるという決意はできていた。今も、どこかで殴られて酷い目にでも合っていればいい。そう思いながら、愛華は柿本の番号を鳴らした。留守番電話に切り替わり、再度鳴らした。今度は留守番電話に切り替わる直前で、柿本が電話に出た。
「私の名前、使った?」
愛華が言うと、咳払いが聞こえた。首を横に振っているような空気が、電話越しでも感じられる。
「いや」
「身に覚えのないお礼が来てんけど。これ、何? ほんまにさあ、巻き込まんでほしい」
「はい。分かった」
どうにも手ごたえがない。愛華はため息をつくと、眉間を押さえた。二十年前のAIと会話しているようだ。
本堂兄妹は、兄の幸樹が二十五歳、妹の果歩が二十歳で、小柄で小動物のような妹に比べると、兄は遺伝子の中へ直接ステロイドを打たれたように筋肉質で、大柄だった。幸樹は専門学校を卒業してすぐに車の部品メーカーに就職し、勤務成績は良好。果歩は高校を卒業してからも歯科助手のアルバイトを続けている。
幸樹は、ほとんどの人間が大学に行くもので、自分もそうなるのだろうと、自身が高校生の頃に漠然と考えていた。しかし本当は、誰もが当たり前のように持つ基盤がないと、自分の力だけでは難しい上に努力をする時間もない。それを経験で気づかされたのは、本堂家が解散した日だった。もちろん、べらぼうに裕福な家ではなかった。『友人』の詐欺話に引っかかった父と、父の言葉を信じた母。全てが終わった後、二人とも再び働きに出ることはなく、残ったのは借金だけだった。何かを始めるためではなく、ただ普通に生きていくための資金。その担保が家から忽然と消えたことで、どうにか繋いでいた命綱が切れた。古い年式のスバルフォレスターで、車体には傷ひとつなかった。
その一週間後に、両親は交通事故で死んだ。夜通し雨が降っていて、現場には横断歩道がなかった。それは、家と駅の間を行き来する近道で、子供の頃は絶対に通らないよう念押しされていた危険な道路だった。両親を轢いたのは鋼材を満載した大型トラックで、急ブレーキは音を鳴らしただけで減速の役には立たなかった。
幸樹は、これから両親の代わりに一生かかって借金を返す羽目になるのだと覚悟を決めたが、具体的な金額は知らないままだった。実際には、免許取得のために口座の中で出番を待っていたバイト代の貯金と、それに果歩のバイト代半月分を上乗せした金額。それが、フォレスターを担保に両親が借りた金だった。
作品名:Straight ahead 作家名:オオサカタロウ