Straight ahead
源は窓を半分下ろすと、エンジンを切った。エンジンルームから乾いた舌打ちのような音が鳴っているだけに思えたが、それに混じって確かに声が聞こえる。運転席のドアを開けて外に出ると、綿野も助手席から降りた。さらに耳を澄ませたとき、源は昼に愛華の『客』が現れたことを思い出した。いい加減、やめさせないといけない。そう考えたとき、今度ははっきり、源と綿野の耳に舌足らずな甲高い声が届いた。
「花梨か?」
源が言うと、綿野はうなずいた。
「せやな。誰か、来てんのか?」
「いないって、言うとるんちゃう? てことは、愛華はおらんのか?」
源はスマートフォンをポケットから取り出した。午後七時半。ちょっと買い物に出かけるにしても、さすがに今日は留守番をさせないだろう。そう思いながら愛華の電話番号に発信すると、源は耳にスマートフォンを当てた。しばらく鳴らして留守番電話に切り替わったとき、綿野が目を見開いて後ずさった。ジムニーのリアゲートを開き、源の体を押しのけるように全開にすると、中からロックピック一式を手に取って、言った。
「痛いって言うてる!」
源は番線カッターを掴み、綿野と走った。階段を駆け上がり、三〇一号室の前まで来たときに、綿野の肩を掴んで言った。
「静かに開けよう」
綿野はうなずくと、スマートフォンのライトで鍵穴を照らし、ロックピックを差し込んだ。源は番線カッターを持って構える自分の手が震えていることに気づいた。あの二人に何かがあったら。数十秒で錠が回る小さな金属音が鳴り、綿野は静かにドアノブを捻った。源が番線カッターを差し込んでドアチェーンを切り、玄関で靴を脱ぐと静かに廊下へ足を下ろした。綿野に番線カッターを渡すと、一気に早足に切り替えて居間に飛び込んだ。
後ろ手に縛られた愛華が、花梨を庇うように覆いかぶさっているのが見えた。花梨の髪が下敷きになって引っ張られていて、源は台所の方へ視線を向けた。細いナイフを持った今川が飛び出して、その刃が届くよりも前に、源が大振りした拳が今川の頬にめり込んだ。ナイフが手から離れ、後ろへのけぞった今川は、コンロに背中をぶつけて跳ね返った。源はほとんど片手で今川の体を持ち上げると横腹に蹴りを入れて倒し、上に被さった。その体重のほとんどが膝を通じて今川の首に食い込んだとき、綿野に言った。
「二人をほどいてくれ!」
綿野が居間に入って、花梨の手を縛るテープを切り、次に愛華を解放した。
「大丈夫か?」
綿野が言うと、愛華は涙をこらえる花梨の体をくまなく見て、言った。
「花梨は大丈夫。わたしが庇ったときに、髪を踏んだから……、ごめんね、痛かったね」
涙で化粧が流れて頬が真っ黒になったまま、顔をしかめた愛華は左腕を持ち上げた。血管のすぐ隣に長い切り傷が走り、血が流れ出している。綿野は救急箱を持ってくると、消毒液を振りかけて血を洗い流し、止血帯を巻いた。愛華は沁みる消毒液に顔をしかめながら、綿野に言った。
「ありがと」
「あいつにやられたんか」
綿野が言うと、愛華はうなずきながら口角を上げて笑った。
「自分でこんなダサい切り傷は作らんよ」
その表情と口調に、綿野は思わず身を引いた。愛華と言えば『ごめーん』と断りを入れながら全部を頼ってくる、性格を可愛げに全部振ったような存在だった。少なくとも今までは、そういう人間に分類していた。しかし今の口調は、別人のようだった。まるで、線路のポイントが切り替わったような。綿野がその横顔を見ていると、愛華の傍に寄り添う花梨が言った。
「ママ、痛くない?」
「うん、大丈夫よ」
「警察呼ぶ? ポリス?」
花梨が唐突に英単語を口に出し、愛華の頬が少し緩んだ。
「ポリスはまた今度、かな。ゲンゲンがやっつけてくれたし」
花梨は、今川に体重をかけ続ける源がピースサインをするのに合わせて同じ仕草を返すと、綿野の方を向いた。
「綿ちゃん、ママの手当てありがとう」
「どういたしまして。よく耐えた。偉いよ」
綿野はそう言って、源の方を向いた。今川を連れ出そうと立ち上がったとき、愛華が花梨に言った。
「ちょっとの時間だけ。お部屋に入って、いい子にしてられる?」
花梨はお安い御用とばかりにうなずいたが、手を胸の前で組んで機嫌を窺うように言った。
「いい子にすることによる、リターンも欲しい」
愛華が困った顔で振り向くと、源が声に出して笑った後、言った。
「チャーシュー土産に買ってきたから、後で食べよか」
「食べる!」
花梨はそう言うと、愛華に背中を優しく押されながら部屋に入っていった。愛華だけが戻って来ると、乱れた髪を後ろにまとめてゴムで留め、言った。
「怖かった」
源は、今川の首にかけている体重を少しだけ緩めて、言った。
「お前、名前なんて言うねん?」
「今川……」
今川はかろうじてそれだけ呟くと、ようやく自由になった気道を通じて空気を吸い込んだ。源は再び体重を首に乗せて抑え込むと、愛華の方を向いた。
「とりあえず、こいつはこっから連れ出すで。情報を聞き出したら、反撃できる」
綿野がほとんど条件反射で同意したように動き出したとき、愛華はそれを手で押しとどめた。
「ちょっと待って。もしかしたら、聞き出してる時間がないかも。ちょっとさ、二人ともここにおってほしい」
愛華は、パソコンデスクの前に置いた肘掛けつきの椅子に腰かけ、マウスをぐるぐると回転させてディスプレイをスリープ状態から叩き起こした。
「クレカの番号から、当たってみる」
そのスキージャンプ選手のような猫背に、源は苦笑いを浮かべた。
「目も腰も、いわすぞ」
「大丈夫。ちょっと、頭に来た」
愛華は呟くように言いながら解析用のツールを立ち上げ、立松から送られてきたクレジットカード番号を殺風景な画面に入力した。綿野が言った。
「それは、何をしてるん?」
「ここ数年、大手が何度もお漏らししてる。カード情報とか、個人情報とか。SNSもあったでしょ」
愛華はディスプレイを見つめたまま言ったが、ふと思い出したように振り返った。
「チャーシューさ。楽しみにしてていいかな?」
源が今川を取り押さえたまま、綿野に鍵を投げた。綿野が部屋から出て行って階段を下りる音が聞こえてきたとき、源は言った。
「綿野がおらんかったら、気づかんかった。あいつやっぱ、すごい耳しとるわ」
「二人とも、命の恩人。ほんまにありがと」
愛華は薄く歯を見せて笑うと、ディスプレイに向き直った。画面上に検索結果が表示され、その内容を読み取った愛華は言った。
「カホって子のフルネームは何?」
源が、今川の首に乗せた体重を少しだけ解放した。今川は細く吸っていた息を一度大きく吸い込むと、咽ながら言った。
「本堂果歩」
「ホンドウカホね。二十歳?」
愛華が言い、今川は目を見開いた。画面に何が表示されているのかは分からないが、占い師のように果歩の年齢を当てた。愛華は細い指でマウスを操作し、ツリーを開いてデータを展開しながら、笑った。
「去年の流出事件で、クレカの情報をやられてる。かわいそうに」
「そんなことまで、そのパソコンで分かるんか?」
作品名:Straight ahead 作家名:オオサカタロウ